昨日は神代植物公園。山茱萸(さんしゅゆ)の花盛り。写真を撮る老人が多かった。




1998N39句(前日までの二句を含む)

March 0931998

 チューリップ買うて五分の遅刻して

                           岡田順子

ぎ足の出勤途中に、早咲きのチューリップが売っていた。とっさに職場に飾りたい気持ちが起きて、買う手間を費やしているうちに、遅刻してしまった。五分の遅刻が責められる職場なのだろう。遅刻の言い訳はできないが、買ってきたチューリップはやはり美しい。同僚たちも口には出さないけれど、気持ちがなごんでいるようだ。遅刻しても、買ってきた甲斐はあったのである。才気煥発という作品ではないが、最近の私は、むしろこういう句に魅力を覚えるようになってきた。雑誌「俳句」(角川書店・1998年3月号)の通巻600号記念特別座談会での黒田杏子の発言。「俳句って自分以上にまとまっちゃうところがある……」ところを極力避けて通っていこうとするならば、これも一つの意志的な書き方だと思いたい。絵の世界では、とっくに「ヘタウマ」の試みもあったことだし……。同じ作者に「すべりこむ電車はみどり日脚伸ぶ」などがある。「俳句文芸」(天満書房・1998年3月号)所載。(清水哲男)


March 0831998

 三月の甘納豆のうふふふふ

                           坪内稔典

の句を有名にした理由は、なんといっても「うふふふふ」という音声を活字化した作者の度胸のよさにあるだろう。EPOのかつてのヒット曲に『うふふふ』があるが、彼女の場合には「うふふふ」を音声で(歌って)表現しているわけだから、度胸という点では稔典には及ばない。いずれも春の歌であり、春の喜びを歌っていて、両方とも私は好きだ。ところで、このときの俳人の度胸は、単に音声を俳句に書き込んだという以上に、既成の俳句概念をすらりと破ってみせたところで価値がある。従来の俳句は「うふふふふ」を、字面の外から聞かせる技術の練磨に専念してきたと言えようが、稔典はそのことを十分に踏まえつつも、あえてあっけらかんと音声そのままに提出してみたのである。「言外」という、なにやらありがたげな領域への文学的な信仰を無視したとき、現われてきたのは、誰もが素朴に生理的に嬉しくなってしまうような「三月」の世界であった。この覿面の効果には、作者ももしかすると吃驚したかもしれない……。ただ、この句を思いだすたびに俳句のなお秘められた可能性を思うが、同時に稔典を安易に真似した句の氾濫には憂鬱にもなる昨今だ。『坪内稔典集』所収。(清水哲男)


March 0731998

 日のたゆたひ湯の如き家や木々芽ぐむ

                           富田木歩

正十二(1923)年、木歩二十六歳の句。前書に「新居」とある。場所は東京府本所区向島須崎町十六番地。隅田川に面した町だ。「湯のごとき家」とは珍しい表現だが、暖房もままならなかった時代に、春を迎えた喜びがストレートに伝わってくる。ましてや、新居である。作者は、とてもはりきっている。生涯歩くことのなかった木歩には、このようにのびやかで明るい句も多い。若くして数々の苦難にあい、それに濾過された晴朗な心の産物なのであろう。しかし、この句を詠んだ半年後に関東大震災が起き、木歩は隅田川の辺で非業の死を遂げることになる。人の運命はわからない。この句は『すみだ川の俳人・木歩大全集』(1989)という本に収められている。実は、本書はこの世にたった二冊しかないという希覯本だ。畏友・松本哉があたうかぎりの資料を調べワープロを打ち、布装の立派な本にして恵投してくれたものである。彼とはじめて木歩について語り合ってから、三十年の月日が流れた。(清水哲男)




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