日銀幹部逮捕で検察天晴れ観。が、システム的に諸悪の根源を断てないのも検察だ。




1998ソスN3ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1231998

 先代の顔になりたる種物屋

                           能村研三

物は、野菜や草花の種のこと。それを売るのが種物屋。花屋とはちがって、種物屋は小さくて薄暗い店が多い。作者は毎春、決まった店で種を求めてきたのだろう。主人が代替わりしたほどだから、店との付き合いもずいぶんと長い。気がつくと、二代目の顔が先代とそっくりになってきた。ときに、先代と向き合っているような錯覚さえ覚えてしまう。対象が命の種を商う人だけに、生命の連続性に着目したところが冴えている。そっくりといえば、谷川俊太郎さんが亡き谷川徹三氏に間違えられたことがあった。二年ほど前だったか、句会の後である庭園を歩いていたら、いかにも懐しそうに詩人に声をかけてきた老人がいた。詩人としては記憶にない人なので曖昧な応答をしているうちに、父親と間違えられていることに気がついた。で、そのことを相手に告げようとしたのだが、少々ボケ加減のその人には通じない。ついには記念に一緒に写真に写ってほしいと言いだし、老人は満足化に「谷川徹三」氏とのツー・ショット写真に収まったのだった。見ていたら、詩人のほうはまことに生真面目な表情で撮されていた。そういえば、句の作者も俳人・能村登四郎氏の三男だ。「春の暮老人と逢ふそれが父」という、息子(!)としての作品がある。(清水哲男)


March 1131998

 朧夜の四十というはさびしかり

                           黒田杏子

齢を詠みこんだ春の句で有名なのは、なんといっても石田波郷の「初蝶やわが三十の袖袂」だろう。三十歳、颯爽の気合いが込められている名句だ。ひるがえってこの句では、もはや若くはないし、さりとて老年でもない四十歳という年齢をひとり噛みしめている。朧夜(朧月夜の略)はまま人を感傷的にさせるので、作者は「さびし」と呟いているが、その寂しさはおぼろにかすんだ春の月のように甘く切ないのである。きりきりと揉み込むような寂しさではなく、むしろ男から見れば色っぽいそれに写る。昔の文部省唱歌の文句ではないけれど、女性の四十歳は「さながらかすめる」年齢なのであり、私の観察によれば、やがてこの寂しい霞が晴れたとき、再び女性は颯爽と歩きはじめるのである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)


March 1031998

 橋姫やありのとわたりのひるさがり

                           夏石番矢

説によると「橋姫」は橋を守る女神であり、非常に嫉妬深いと伝えられている。そして、蟻が一列の細い筋になって進むことを「ありのとわたり」と言うが、転じて会陰部を指すこともある。……というわけで、この句はいろいろに解釈でき、それはそれで構わないというのが作者の意図だろう。有季定型句に慣らされた目には、これが「俳句」なのかと写るはずだが、好き嫌いは別にして、これも「俳句」なのだと私は思う。正岡子規が俳諧連句から冒頭の「発句」だけを独立させて「俳句」にしようと言い出したとき、べつに子規路線はこのような句の登場を禁じてはいなかった。いや、子規の思惑がどうであれ、吉本隆明が「俳句は日本文学の家庭内暴力みたいだ」と言ったように、俳句は和歌と違って、いまだに言語的な荒々しさ(冒険性)をそなえた表現様式だと思う。何でもありの混沌のなかにあるのだから、作者は当然のことに苦しいだろうが、読み手としてはこんなに楽しくてスリリングなジャンルが他にあるとは思えないほどだ。『人体オペラ』(1990)所収。(清水哲男)




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