今日は井川博年に書いてもらった。彼の余白句会報告は抜群。そのうち紹介します。




1998ソスN3ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1431998

 卒業す片恋のまま ま、いいか

                           福地泡介

出は「サンデー毎日」の「ヒッチ俳句」。「ま、いいか」が絶妙ですね。これを「ま、いいか 片恋のまま卒業す」とすると味がなくなってしまう。ここらへんがマンガ家のセンスである。ホースケは片想いが好きで(こういうと変であるが)、他にも「梅一輪ほどのひそかな片思い」という句もある。「ヒッチ俳句」にはマンガも添えられていて、評者は、立ち読みで愛読していました。福地泡介は1995年1月5日、57歳で死去。今回引用した句は東海林さだお編・福地泡介[マンガ+エッセイ]傑作選『ホースケがいた』(日本経済新聞社・1500円)による。この本が実にいい。こんな素晴らしい追悼集は久方読んだことがない。友の情けに泣ける本です。(井川博年)


March 1331998

 むつつりと春田の畦に倒けにけり

                           飯島晴子

田は、昨秋の収穫期から今年の春までそのままにしてある田圃のこと。「倒けにけり」は「こけにけり」と読ませる。要するに、春田の畦を歩いていた農夫が、どうしたはずみかひっくり返っちゃったのだが、その顔は苦笑するでもなく、相変らずむっつりしているというシーンを捉えた句だ。ユーモラスであると同時に、読者をしてこの農夫の生き方の一端に触れさせる作品である。こういう人は、電車のドアが鼻先でしまっても、決して多くの都会人のように照れ笑いしたりはしないだろう。「むつつりと」が小気味好いほどに利いている。かつて阿部完市が晴子句を評して「何気ない言葉が奇妙にとたんに生動し、何気なさというぼかしが逆にひどく焦点化するのを実感する」と言った。まことに、そのとおりではないか。春田を眺めるのならば、いまが旬だ。無念にも、私の暮らしている三鷹武蔵野地域には、水田といえるほどの立派な田圃は皆無である。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)


March 1231998

 先代の顔になりたる種物屋

                           能村研三

物は、野菜や草花の種のこと。それを売るのが種物屋。花屋とはちがって、種物屋は小さくて薄暗い店が多い。作者は毎春、決まった店で種を求めてきたのだろう。主人が代替わりしたほどだから、店との付き合いもずいぶんと長い。気がつくと、二代目の顔が先代とそっくりになってきた。ときに、先代と向き合っているような錯覚さえ覚えてしまう。対象が命の種を商う人だけに、生命の連続性に着目したところが冴えている。そっくりといえば、谷川俊太郎さんが亡き谷川徹三氏に間違えられたことがあった。二年ほど前だったか、句会の後である庭園を歩いていたら、いかにも懐しそうに詩人に声をかけてきた老人がいた。詩人としては記憶にない人なので曖昧な応答をしているうちに、父親と間違えられていることに気がついた。で、そのことを相手に告げようとしたのだが、少々ボケ加減のその人には通じない。ついには記念に一緒に写真に写ってほしいと言いだし、老人は満足化に「谷川徹三」氏とのツー・ショット写真に収まったのだった。見ていたら、詩人のほうはまことに生真面目な表情で撮されていた。そういえば、句の作者も俳人・能村登四郎氏の三男だ。「春の暮老人と逢ふそれが父」という、息子(!)としての作品がある。(清水哲男)




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