新聞に98-99秋冬パリ・コレの写真。溜め息が出そうだ。…と思い込むと、楽しめる。




1998ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1531998

 ファインダーてふ極小の窓の春

                           林 翔

者の林翔(はやし・しょう)は八十四歳。1940年(昭和15年)に「馬酔木」入会というから、本格的な句歴は六十年に及ぼうとしている。カメラの極小の窓からは、どんな春が見えたのだろうか。最近気がついたことだが、カメラを片手に散歩する高齢者の何と多いことか。有名な公園などでは、「極小の窓」から覗いている人の邪魔をしないようにするのが一苦労だ。たいていの人は、植物を被写体にしている。間違っても、行きずりの美人を撮ったりはしない。かつて稲垣足穂が「人間の興味は、歳を取るにつれて動物から植物に、さらには鉱物へと移っていく」と言ったのは、本当だった。私はまだまだ美人は好きだけれど、だんだんとそうなりつつあることも否定できない。たまにデジカメを持って、近所をウロウロする。ひとりでに、好みの花ばかり探している自分に気がつく。『あるがまま』(1998)所収。(清水哲男)


March 1431998

 卒業す片恋のまま ま、いいか

                           福地泡介

出は「サンデー毎日」の「ヒッチ俳句」。「ま、いいか」が絶妙ですね。これを「ま、いいか 片恋のまま卒業す」とすると味がなくなってしまう。ここらへんがマンガ家のセンスである。ホースケは片想いが好きで(こういうと変であるが)、他にも「梅一輪ほどのひそかな片思い」という句もある。「ヒッチ俳句」にはマンガも添えられていて、評者は、立ち読みで愛読していました。福地泡介は1995年1月5日、57歳で死去。今回引用した句は東海林さだお編・福地泡介[マンガ+エッセイ]傑作選『ホースケがいた』(日本経済新聞社・1500円)による。この本が実にいい。こんな素晴らしい追悼集は久方読んだことがない。友の情けに泣ける本です。(井川博年)


March 1331998

 むつつりと春田の畦に倒けにけり

                           飯島晴子

田は、昨秋の収穫期から今年の春までそのままにしてある田圃のこと。「倒けにけり」は「こけにけり」と読ませる。要するに、春田の畦を歩いていた農夫が、どうしたはずみかひっくり返っちゃったのだが、その顔は苦笑するでもなく、相変らずむっつりしているというシーンを捉えた句だ。ユーモラスであると同時に、読者をしてこの農夫の生き方の一端に触れさせる作品である。こういう人は、電車のドアが鼻先でしまっても、決して多くの都会人のように照れ笑いしたりはしないだろう。「むつつりと」が小気味好いほどに利いている。かつて阿部完市が晴子句を評して「何気ない言葉が奇妙にとたんに生動し、何気なさというぼかしが逆にひどく焦点化するのを実感する」と言った。まことに、そのとおりではないか。春田を眺めるのならば、いまが旬だ。無念にも、私の暮らしている三鷹武蔵野地域には、水田といえるほどの立派な田圃は皆無である。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)




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