いやあ物凄い春疾風でしたね。花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ…。




1998ソスN3ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2131998

 前略と書いてより先囀れり

                           岡田史乃

無精なので、私にはこういうことがよく起きる。「前略」と書きはじめたまではよいのだが、さて中身をどう書いたらよいものか。「前略」なのだから、簡潔な用向きだけを書けばすむ。しかし、この簡潔が曲者であって、なかなかまとまらない。思案しているうちに、春の鳥たちの囀(さえず)りが耳に入ってきた。で、しばし、手紙のつづきは思案の外に出てしまうのである。この句では、気に染まぬ相手宛の手紙だったのかもしれない。ところで手紙の作法では、「前略」と書きだした場合、男は「早々」などと締め、女は「かしこ」ないしは「あらあらかしこ」と挨拶して終る。最近まで知らなかったのだが、この「あらあら」とは「粗粗」、つまり「十分に意を尽くせませんで……」という意味なのだそうである。手紙の粗略を詫びているのだ。私はまた、女性らしい間投詞か何かの転用かと思っていた。もっとも、これまでに「かしこ」つきの手紙はもらったことがあるが、残念なことに「あらあらかしこ」はない。当方が、粗略な性質の故であろうか。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


March 2031998

 鴬やかまどは焔をしみなく

                           橋本多佳子

は春。鴬が鳴いている。竃の火はごうごうと焔をあげている。この他に何を望むことがあろうか。身心ともに充実した感じが、心地よく伝わってくる。日常生活のなかの充足感を、このように具象的にうたった句は意外に少ない。というよりも、たぶん幸福な感情をそのまま直截にうたうこと、それ自体が「文芸」には至難の業なのである。不得意なのだ。だからこそ、この句は際立つ。まぶしいほどだ。敗戦一年前の1944年(昭和19年)の作品。このとき、作者は大阪から奈良西大寺近くの菅原へ疎開していた。夫をなくしてから病気がちであった作者も、ここ菅原の地で健康を回復している。それゆえの掲出句の元気のよさなのだが、そんなことは知らなくても、十分にこの句の幸福感は読者のものとなるはずである。『信濃』(1947)所収。(清水哲男)


March 1931998

 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

                           夏目漱石

そのものではなく、木瓜(ぼけ)という語感に着目した句だ。「拙を守る」とはへんてこな意志と思われるかもしれないが、漱石のような才気横溢した人にとっては、おのが才気のままに流れていくことは、たぶん怖いことだったのだろう。才気には、知らず知らずのうちに現実から遊離してしまうという落し穴がある。小説家にしてみれば、この穴がいちばん恐ろしい。だから、どうしても「拙を守る」強固な意志を持ちつづける必要があった。「世間には拙を守るという人がある。この人が来世生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(『草枕』)。そして漱石ならずとも、現代人の多くはいま木瓜になるべきときかもしれない。シャープという名の小賢しさが一掃されたら、どんなに気持ちがよいことか。私が俳句を好むのも、俳人には「拙を守る」人がたくさんいるからである。とは、それこそまことに小賢しい言い方かもしれないが……。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)




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