昨日、市内を走る「小田急バス」が12年ぶりに始発から3時までストを打った。感服。




1998ソスN3ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2731998

 花は莟嫁は子のない詠哉

                           井原西鶴

は莟(つぼみ)がよいという。そういう美意識の持ち主は、とくにこの国には多いようだ。それはそれで一向に構わないのだが、西鶴という人は、ただ自然美を提出するだけでは物足りなかった。そこに人間臭さを嗅ぎとらないと、気持ちの収まりがつかなかった。つまり、花は莟のうちがよいように、人妻もまだ子供を生まないうちの詠(ながめ)が一番いいんだよね、と言っている。なんのことはない、花の莟は刺身のツマにされているのだ。俗世間に執着するのが、彼の文芸である。この句は、有名な千六百句独吟中の一句。一日一夜のうちにどれだけの句数を詠みうるかという、量的な高峰を目指したところにも大いに俗がある。そして、なにしろ即吟即詠だけに、格好などつけていられない状況での句づくりだから、作者の本音がすべて出てしまっている面白さがある。1677年(延宝五年)5月25日、大阪生玉本覚寺には数百人の人々が詰めかけたという。俳句を聞くためにこれだけの人出、ちょっとしたロックバンドなみの人気だった。(清水哲男)


March 2631998

 脇甘き鳥の音あり春の闇

                           三橋敏雄

撲などで使う「脇が甘い」という言葉。「脇が甘い」と、相手に得意の差し手を許してしまう。要するに、守りに弱いということであり、緊張感を欠く状態を指している。月のないおぼろに暗い春の夜のひととき、本来の用心深さを忘れたような鳥の動く音が、どこからか聞こえてきたというのである。いや、実際に聞こえてきたのではないだろう。そんな感じがするほどに、生きとし生けるものがみな、甘やかな春の闇のなかで半ば陶然としている様子を象徴させた句だ。作者は、このときひとり静かに盃を手にしていたのかもしれない。となれば、いちばん「脇の甘い」のは作者自身というわけだが、この想像は、まあ私のような呑み助だけの深読みとしておこう。『鷓鴣』(1979)所収。(ところで、句集名を読めますか。正解は「シャコ」、キジ科の鳥の名前です。私は辞書を引きました)。(清水哲男)


March 2531998

 風吹かず桃と蒸されて桃は八重

                           細見綾子

あ、とてもかなわないな。文句なしだな。そう思う句にときどき出会う。俳句好きの至福の瞬間である。揚句もそのひとつで、なんといっても「蒸されて」という比喩の的確さには、まいってしまう。梅でも桜でもない「桃の花」の臨場感とは、こういうものである。めずらしく風のそよろとも吹かない春の日、桃の傍らに佇む若い作者の上気した顔が、目に見えるようだ。作者は、桃の花の美しさを、「蒸されて」と、いわば肌の感覚で見事に描いてみせている。花を愛でるというよりも、花に圧倒されている自分を、つつましくも上品にさりげなく、みずからの若さの賛歌に切り替えている技術が素晴らしい。桃の花も八重ならば、作者の若々しさも、いま八重咲きのなかにある。『桃は八重』所収。(清水哲男)




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