桜が散りはじめた。ナニゴトノフシギナケレド…。今日は燃えないゴミの日である。




1998ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0841998

 囀やにんげんに牛集まつて

                           中田尚子

々とした牧場の光景だ。空には鳥(雲雀だろうか)の声があり、草の上には人なつこく寄ってくる牛たちがいる。すべて世はこともなし。のどかな光景だ。私に牧場体験はないけれど、「にんげんに牛集まつて」の描写のやわらかさにホッとさせられる、とてもよい気分になれた。鳥も牛たちも、そして「にんげん」も、ここでは大きな自然のなかに平等に溶けてしまっている。そこが句の眼目だ。だからこそ「人間」ではなくて、この場合はあえて「にんげん」なのである。それこそ、この句は作者の「にんげん」性の良質さに支えられた表現にちがいなく、読後すぐに格別の好感を抱いたというわけ……。ところで、牛といえば、以前から気になっている別の句がある。「さびしさに牛をあつめて手品せり」というのだが、どなたの作品なのでしょうか。数年前に雑誌かなにかで読んで、大いに気に入っているのだけれど、迂闊にも作者の名前を忘れてしまいました。作風からしてまだ若い俳人だと思いますが、ご存じの方がありましたら、ぜひともご教示くださいますように。「俳句界」(1998年4月号)所載。(清水哲男)


April 0741998

 美しき冷えをうぐひす餅といふ

                           岡本 眸

菓子は美しい。食べるには惜しいと思うことすらある。作者の師である富安風生に「街の雨鴬餅がもう出たか」という有名な句があるが、味わいたいという気持ちよりも、その美しさが春待つ心に通い合っている。この名句がある以上、風生門としてはめったな鴬餅の句はつくれないという気持ちになるだろう。つくるのであれば、満を持した気合いのもとにつくるのでなければならない。で、この句は、見事に師のレベルに呼応していると見た。単なる美しさを越えて、美を体感的にとらえたところで、あるいは師を凌駕しているとも言えるだろう。野球に例えれば、師弟で決めた鮮やかなヒットエンドランというところか。それにしても、「鴬餅」とは名づけて妙だ。名前自体が春を呼び込んでいる。そんなこともあって、たまに私のような酒飲みでも食べてみたくなることがある。森澄雄の句に「うぐひす餅食ふやをみなをまじへずに」とある。『母系』(1983)所収。(清水哲男)


April 0641998

 薮の小家より入学の児が出て来

                           村山古郷

蔭の小さな家。ふだんは人の気配もあまりないのだろう。老夫婦がひっそりと暮らしているような趣きの家だ。そんな家から、いきなりピカピカの一年生が飛び出してきた。この意外性に、作者は一瞬驚いたのだが、すぐになんだか嬉しい気持ちのわいてくる自分を感じている。この瞬間から、作者のこの小家に対する感じ方は、大きく変わったことだろう。今日は全国各地で入学式が行われる。石川桂郎に「入学の吾子人前に押し出だす」があるが、たぶん私も押しだされたクチである。内気を絵に描いたような子供だった。入学のとき、桜が咲いていたのかどうか、まったく覚えていない。敗戦の一年前のことで、入学後は警戒警報のサイレンが鳴るたびに、頭上にアメリカの偵察機や爆撃機を見ながら下校するというのが日常であった。すなわち、我らの世代は、小学校もロクに出ていないのである。(清水哲男)




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