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April 1141998

 桜散る個々に無数に社員踊り

                           村井和一

ささかタイミングを失した花見の会。散りゆく桜の下で、作者は大いに酩酊しているのだろう。「無数」にいるわけもない仲間の社員たちが、次々に勝手に(「個々に」)踊る姿が「無数」に見えるのも、年に一度の花見ならではのイリュージョンである。この統一感のない今宵の宴を、作者は好もしいとも思い、他方ではサラリーマンとして生きていることの寂しさを噛みしめる場ともとらえている。明日からは、また整然たる秩序のなかで、みんな働くのだ。飲むほどに酔うほどに、落花は「無数」とおぼしきほどに激しく、次第に「個々の」寂寥感も募ってくるようだ。古人曰く、「散るさくら残るさくらも散るさくら」と……。サラリーマンの哀歓を詠んだ句は多いが、なかでも異色と言うにふさわしい作品である。(清水哲男)


March 0832006

 雄鶏の一歩あゆめば九十九里

                           村井和一

季句。うわあっ、とてつもなくでっかい「雄鶏」の出現だ。「一歩」の幅が「九十九里」もあるニワトリだなんて。と、仰天する人は、実はいないだろう。誰もが、「九十九里」が地名であることを知っているからだ。実際には、この雄鶏は九十九里で飼われているわけで、一歩もあゆまなくとも、そこは九十九里なのである。けれども、作者があえて地名を実際の距離に読み替えてみることで、眼前の雄鶏がいきなりゴジラ以上に巨大になってしまったのだ。想像するだに、ものすごい。遊び心の旺盛な楽しい句だ。句集の解説者・大畑等によれば、作者の句作の源にあるのは、落語と雜俳(ざっぱい)だという。「蕪村や芭蕉ではなく雜俳なのである。一見、低俗粗悪の価値観と見なされているこのことばにこそ作者の方法がある」。さも、ありなん。機会を見て他の句も紹介したいが、「自分の人生を俳句でなぞるようなこと」や「俳句を人生の足しに」したくないと言う作者の面目躍如たる句がふんだんにある。だが、正直に言って,いまの俳句界の趨勢からすると、こうした句はなかなか受け入れられないだろう。その根拠をたどれば、明治国家の性急な近代化路線にまで行き着くが、大畑も指摘しているように、現在にまで及ぶ子規の俳句革新運動が切り捨てたもののなかに、こうした雜俳的遊びの精神も含まれていた。以来、この国の俳人たちは急に糞真面目になり、にこりともしなくなってしまったのだ。俳句ばかりではなく、日本文学からほとんど笑いや楽しさが消えてしまった状態は、私たちの日常生活に照らすだけでも、ずいぶんと変てこりんであることがわかる。『もてなし』(2005)所収。(清水哲男)


April 1942009

 窓ぎわの花に眠気の容疑あり

                           村井和一

とえば人前でスピーチをするときには、下手なジョークを入れずに、場に合った内容の話を、ひたすらまじめに伝えることに終始したほうが、間違いがありません。句を読む時にも、それと同じことが言えるのではないでしょうか。まじめに詠まれた句は、その句がどのように読者に受けとめられるかということに、それほど神経をつかう必要はありません。しかし、多少でも「おふざけ」の要素が入った句は、かなり慎重に読者の受け止めかたを見極めておかないと、とんでもないことになります。本日の句も、「容疑あり」の一語で、大きな危険を冒しています。しかし結果としては、とんでもないことにはならなかったようです。のんびりとした休日の午後、窓際の椅子に座って、好きな音楽でも聴いていたのでしょうか。そのうちにうつらうつらと、心地よい眠気が襲ってきています。この眠気はほかでもないこの花のせいではないかと、他愛のない言いがかりを付けているのです。気がつけば「容疑あり」の一語は、「窓ぎわ」や「花」に負けないほどに、春の明るさを伝えてくれています。「俳句界」(2009年4月号)所載。(松下育男)




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