『広辞苑』によればと、国会で共産党議員。国語辞典信仰は未だ『広辞苑』にあり。




1998ソスN4ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1441998

 たばこ吸ふ猫もゐてよきあたたかさ

                           嵩 文彦

者は北海道札幌市在住。医師にして現代詩人。私と同世代で、最近は詩よりももっぱら俳句に力を入れているようだ。北海道の春の訪れは遅いので、暖かくなってくる喜びには、私のような「本土」に住む人間には計り知れないものがあると思う。だから「たばこ吸ふ猫」がいたっていいじゃないかと思えるほどに、嬉しい気分はほとんど天井知らずの高さにまで跳ね上がっている。そこで読者もまた、作者と同じ気分になって嬉しくなってしまうのだ。そういえば谷岡ヤスジの漫画に、煙管を銜えた呑気な牛が出てくるが、煙草を吸う猫も、ぜひとも彼に描いてもらいたくなった。ヒトとネコが一緒に煙草を吸いながら、あれこれと語り合う春のひととき……。うん、こいつは絶対にケッサクな漫画になるぞ。『春の天文』(1998)所収。(清水哲男)


April 1341998

 靴裏に都会は固し啄木忌

                           秋元不死男

月十三日は石川啄木の忌日。したがって「啄木忌」は春の季語。1912(明治45)年、不遇と貧困のうちに二十七歳の若さで病没した。句は、都会での成功を夢見て破れた啄木の無念を想い、都会で生きる難しさを鋪道の固さで象徴している佳句だ。ところで、このように「忌日」を季語とすることについて、かつて金子兜太が次のように反対している。「人の死んだ忌日を、季語にしてしまうやり方は、不埒千万、季語そのものさえ冒涜するものと考えている。(中略)故人の業績や人がらをしのばせるのが目的ならかまわないが、季節までこれで連想させようとするのは行き過ぎである。俳人がぜんぶ戸籍係になっても、とても季節まで記憶できるものではない」(KAPPA BOOKS『今日の俳句』1965)。その通りだと、私も思う。句集を読んでいて、いちばん困るのが「……忌」である。季節もわからないし、第一「……」の部分がわからないので解読が不可能となる。たとえば太宰治の「桜桃忌」(6月19日)には季節感があるのでまだしも、芥川龍之介の「我鬼忌」(7月24日)になると、すぐに芥川の命日だと反応し、しかも夏の季語だとわかるのは、もはや特殊な教養人に限られてしまうのではあるまいか。(清水哲男)


April 1241998

 春たのしなせば片づく用ばかり

                           星野立子

を開けたほうが暖かく感じる。そんな日がつづくと、洗濯や掃除など、主婦の仕事は大いにはかどる。はかどることが、また次の用事を片づけることに拍車をかけてくれる。洗濯や掃除といっても、立子の時代には洗濯機や掃除機があるわけではなし、主婦は大変であった。とくに作者の場合は、主婦業の他に、俳人としての仕事もあったわけで、ついつい先伸ばしにしていた「用」も、いろいろとあったことだろう。しかし、億劫に思っていた「用」も、やりはじめてみれば何のことはない。簡単にすんでしまう。それもこれもが、この明るい季節のおかげである。こういうことは、主婦にかぎらず、もちろん誰にでも起きる。春はありがたい季節なのだ。地味な句だが、季節と人間の関係をよくとらえていて卓抜である。『続立子句集第二』(1947)所収(清水哲男)




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