『鳩子の海』の斎藤こず恵さんに会った。名子役も30歳。ニューヨークで結婚した。




1998ソスN4ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2241998

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

からないといえば、わからない。だが、ぱっと読んで、ぱっと何かが心に浮かぶ。そして、それが忘れられなくなる。飯島晴子の俳句には、そういうところがある。一瞬にして読者の想像力をかきたてる起爆剤のようだ。たとえば、ある読者はおどろおどろしい探偵小説の一齣と思うかもしれないし、また別の読者は昔の子の無邪気に遊ぶ姿を想像するかもしれない。前者は「春の蔵」の白壁の明るさに対して「からす」に暗さや不吉を読むからであり、後者は「からすのはんこ」に子供らしい好奇心のありかを感じるからである。もちろん、作者自身の描いたイメージは知るよしもないけれど、知る必要もないだろう。よく読むと、この句では主体も客体も不明である。いったい誰が「からすのはんこ」を押しているのだろうか。はっきり見えるのは「春の蔵」だけなのであって、結果的に作者は「春の蔵」の存在感だけを感じてくれればよいと作ったのかもしれない。何度も読んでいるうちに、そう結論づけたくもなってきた。しかし、彼女の句はそんな結論なんかいらないと言うだろう。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


April 2141998

 暗いなあと父のこゑして黄沙せり

                           小川双々子

沙(こうさ)の定義。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」、季語では「霾(つちふる)」と言う。どういうわけか、最近ではあまり黄砂現象が見られなくなってきた。かつての武蔵野では、黄砂に加えて関東ローム層特有の土埃りが空に舞い上がり、目を開けていられなくなるような時もあったほどだ。この句の「暗いなあ」は、そうした物理的な意味合いも含むけれど、作者にはそれがもっと形而上的な意味としても捉えられている。何気ない父親のつぶやきが、自然のなかに暮らす類としての人間の暗さに照応しているように思えたのである。暗い春。春愁などという言葉よりも、一段と深く根源的な寂しさを感じさせるこの作品に、双々子俳句の凄みを感じさせられる。『囁囁記』(1981)所収。(清水哲男)


April 2041998

 すかんぽのひる学校に行かぬ子は

                           長谷川素逝

原白秋に「すかんぽの咲く頃」という童謡があり、歌い出しは「土手のすかんぽジャワ更紗……」である。すかんぽ(酸葉)は、歌の通りに、昔は川の土手や野原などに密集して生えていた。歌は小学生たちの学校への行き帰りの情景を生き生きと描いたもので、句はこの童謡を踏まえていると思われる。詠まれている子は、今で言う登校拒否児とは違って、目覚めてからふとサボりたくなったのだろう。家にいると叱られるので、一応登校するふりをして近所の河原で所在なく時が過ぎるのを待っているのだ。こんなことなら、学校に行ったほうがよかったかな。そんな後悔の念もわいてくる。しかし、春の時間は遅々として進んでくれない……。そして作者にも、同様な思い出があるのかもしれなく、むしろ微笑してそんな子供を眺めている。なんだか、大人でも仕事をサボりたくなるような、春の真昼時だ。最近では「すかんぽ」と言っても、知らない人が増えてきたのには寂しい気がする。(清水哲男)




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