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April 2441998

 苗床にをる子にどこの子かときく

                           高野素十

かにも「そのまんま俳句」の素十らしい作品だ。苗床などという場所に、普段は子供は立ち入らない。そこに子供がいたので、なかばいぶかしげに、作者は思わずも「どこの子か」と聞いたのである。そういえば、私が子供だったころには、よく「どこの子か」と聞かれた。いぶかしさもあってのことだろうが、半分以上は心配する気持ちからだったろう。それにしても、この「どこの子か」という聞き方は面白い。名前ではなくて、所属を聞いているのだ。名前よりも所属や所在、つまり身元の確かなことが重要だった。狭い田舎のことだから、それを答えると、どの大人も「ああ」と納得した。今はどうだろう。子供に「どこの子か」と聞くこともないし、第一、そんな聞き方をしたら警戒されてしまうのがオチだ。素十の「そのまんま俳句」も「そのまんま」ではなくなってきたということ。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


May 1552014

 苗床にをる子にどこの子かときく

                           高野素十

床を子どもたちがのぞきこんでいる。その中に見かけない子がいるがどこの子だろう。句意とすればそれだけのものだろうが、このパターンは句会でもよく見かける。ベースになっているのが誰の句かな、と思っていたら素十の句だった。「苗床」が焚き火になっていたり、盆踊りになっていたり季語にバリエーションはあるけれど見知らぬ子がまじっているパターンは一緒だ。類句がつまらないのは、この句の下敷きになっている村の共同体がもはや成り立たないからだろう。子供神輿の担ぎ手がいなくて祭りの体裁を整えるのに縁もゆかりもない土地から子供に来てもらうこの頃である。子供のいない村では「どこの子か」どころではない。この句が持っているぬくもりは今や遠い世界に感じられる。『雪片』(1952)所収。(三宅やよい)




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