May 041998
追憶のぜひもなきわれ春の鳥太宰 治明るい鳥の囀りが聞こえるなかで、過去をふりかえっているのは『人間失格』などの作家・太宰治だ。しかし、よい思い出などひとつもなく、その虚しさに嘆息している。自嘲している。明暗のこのような対比が、太宰文学のひとつの特長だ。太宰の俳句は珍しいが、当人に言わせると「そのとしの夏に移転した。神田・同朋町。さらに晩秋には、神田・和泉町。その翌年の早春に、淀橋・柏木。なんの語るべき事も無い。朱麟堂と号して俳句に凝つたりしてゐた。老人である」(『東京八景』1941)ということで、大いに俳句に力を注いでいた時代があったようだ。小説家として有名になってからは、トリマキと一緒にしばしば句会を開いていたという記録もある。それにしては残されている句が少ないのは、俳人としての力量が一流に及ばないことを自覚して、みずから句稿を破棄してしまったからであろう。この句も、太宰の名前がなければ、さしたる価値はない。今年は、太宰歿して五十年。著作権が切れることもあり、太宰本があちこちから出る模様。『太宰治全集』(筑摩書房)他に所収。(清水哲男) January 262003 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像太宰 治大 February 252009 幇間の道化窶れやみづっぱな太宰 治この場合、幇間は「ほうかん」と読む。通常はやはり「たいこもち」のほうがふさわしいように思われる。現役の幇間は、今やもう四人ほどしかいない。(故悠玄亭玉介師からは、いろいろおもしろい話を伺った。)言うまでもなく、宴席をにぎやかに盛りあげる芸人“男芸者”である。いくら仕事だとはいえ、座持ちにくたびれて窶(やつ)れ、風邪気味なのか水洟さえすすりあげている様子は、いかにも哀れを催す。幇間は落語ではお馴染みのキャラクターである。「鰻の幇間(たいこ)」「愛宕山」「富久」「幇間腹(たいこばら)」等々。どうも調子がいいだけで旦那にはからかわれ、もちろん立派な幇間など登場しない。こういう句を太宰治が詠んだところに、いかにも道化じみた哀れさとおかしさがいっそう感じられてならない。考えてみれば、太宰の作品にも生き方にも、道化た幇間みたいな影がちらつく。お座敷で「みづっぱな」の幇間を目にして詠んだというよりも、自画像ではないかとも思われる。「みづっぱな」と言えば、芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」がよく知られているし、俳句としてもこちらのほうがずっと秀逸である。二つの「水洟」は両者を反映して、だいぶ違うものとして読める。太宰治の俳句は数少ないし、お世辞にもうまいとは言えないけれど、珍しいのでここに敢えてとりあげてみた。ほかに「春服の色 教えてよ 揚雲雀」という句がある。今年は生誕百年。彼の小説が近年かなり読まれているという。何十年ぶり、読みなおしてみようか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
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