ビールに煙草、そして本。頼まれ仕事は後回し。そんな暮しが夢だなどとは情けなし。




1998蟷エ5譛11譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

May 1151998

 高根より礫うち見ん夏の海

                           池西言水

水(ごんすい)は江戸期の人。前書に「比叡にて」とあるから、この海は琵琶湖である。陽光にキラキラと輝く湖面が目に見えるようだ。石を投げても届くわけはないのだが、人は高いところに登ると、どういうわけか何か投げたくなる。子供っぽいといえば子供っぽいけれど、自然のなかで解放された気分とよくマッチしている。もっとも、今では危険なので、かなりの山奥でもこんな稚気も発揮できなくなった。私が子供だったころは、遠足で山に登ると、必ず礫(つぶて)の打ち合いっこになった。遠投競争だ。憧れのプロ野球投手の投球フォームを真似て、飽きもせずに放りつづけたものである。そして、川や湖に出れば石での「水切り」。西鉄・武末投手のサブマリン投法で投げるのだ。ところで、この元禄の俳人は、このときどんなフォームで石を投げたのだろうか。句の中身とは無関係だが、私としてはとても気になってしまうのである。『前後園』(元禄二年・1689)所収。(清水哲男)


May 1051998

 母の日の常のままなる夕餉かな

                           小沢昭一

集『変哲』より、69年5月作。あの小沢昭一である。評者にとっては困った時の「変哲(小沢昭一の俳号でもある)」頼み。変哲の句を出せば安心できるのだ。「母の日」といっても特別なことをするというわけではない(大体そんなもの昔はなかった)、いつもと同じ夕餉につき黙々と食べる。この句には見えない母が曲者ですな。同居の老母かもしれないし、子供たちの母、すなわち作者の老妻かもしれない。その方がむしろ味わい深い。「母の日」は、今年は本日十日。常日頃、92歳の母を老人ホームに入れたきりで、電話一本かけもしない親不幸息子の評者であるが、今年はお見舞にでも行こうかしら。(井川博年)


May 0951998

 反り合はぬ花のなきかに霞草

                           佐藤博美

屋でちょっとした花束をこしらえてもらうと、注文をつけないかぎり、まず霞草が外されることはない。それほどにこの花は、どんな花とも相性がよい。作者が言うように「反り」の合わない花はないみたいだ。ただし、この句はそれだけのことを言っているのではなくて、霞草のように誰とでも調子を合わせられない自分自身の「感性」を、いささか疎んじているのでもある。そして一方では、霞草がどんな花とも付き合えるとはいっても、それはしょせん引き立て役にすぎないではないかという小さな反発心もあるように思われる。そのあたりの微妙な心の揺れ具合が、この句の読みどころだろう。ところで、本サイトが定本として参照している歳時記には、霞草の項目がない。花屋には一年中出回っているからだろうが、本来は初夏の花だ。当サイトでは「夏」に分類しておく。『私』(1997)所収。(清水哲男)




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