サッカーくじ法成立。スポーツ振興のためというが、スポーツするより田を作れ。




1998ソスN5ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1351998

 はつ夏の空からお嫁さんのピアノ

                           池田澄子

家の「お嫁さん」と読んでは面白くない。それでは谷内六郎ばりの世界になってしまう。季節は、息子に嫁を迎え、二世帯同居となったはじめての夏、つまり「はつ夏」である。まだ姑という立場がピンとこない作者は、このときよい天気に誘われて、庭先にでも出ているのだろう。と突然、開け放たれた二階の窓から「お嫁さん」の弾くピアノの音が聞こえてきた。長年住み慣れた家であるが、これまでにピアノの音などしたことはない。それが今、我が家で鳴っているのはまぎれもなくピアノである。作者は、そのいわば「異音」に反応している。すなわち「異音」の源にいる「お嫁さん」に反応している。だから「お嫁さん」と突き放し、まだ家人扱いできないのだ。寒くもなく暑くもない快適な陽気のなかで、作者は「異音」に心を奪われ、いつもの初夏を味わえていない図である。コレマデドオリニハイカナイという予感、そして覚悟。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


May 1251998

 押鮨の酢がややつよし帰国せり

                           小倉涌史

外出張からの帰国だろう。一風呂浴びて、作者は夕餉のテーブルにむかっている。ひさしぶりに一家そろっての楽しい一時だ。妻の手料理の押鮨も嬉しい。が、今夜はなんだか少し酢の味が強く感じられる。いつもは、こんなじゃないのに……。作者はいぶかるのだが、そう感じるのはおそらく外国での食生活のせいだろうと、思い直してもみるという趣きか。鮨が少々酸っぱかろうが何だろうが、とにかく仕事を無事にやり遂げて、鮨のある国に帰ってきたという安堵感。周囲の家族のことは何も書かれていないが、なごやかな雰囲気が伝わってくる。俳句ならではのマジックというべきだろう。もとより読者も、そんな感じにホッとさせられる心地よい句だ。「鮨(鮓)」は夏の季語。『落紅』(1993)所収。(清水哲男)


May 1151998

 高根より礫うち見ん夏の海

                           池西言水

水(ごんすい)は江戸期の人。前書に「比叡にて」とあるから、この海は琵琶湖である。陽光にキラキラと輝く湖面が目に見えるようだ。石を投げても届くわけはないのだが、人は高いところに登ると、どういうわけか何か投げたくなる。子供っぽいといえば子供っぽいけれど、自然のなかで解放された気分とよくマッチしている。もっとも、今では危険なので、かなりの山奥でもこんな稚気も発揮できなくなった。私が子供だったころは、遠足で山に登ると、必ず礫(つぶて)の打ち合いっこになった。遠投競争だ。憧れのプロ野球投手の投球フォームを真似て、飽きもせずに放りつづけたものである。そして、川や湖に出れば石での「水切り」。西鉄・武末投手のサブマリン投法で投げるのだ。ところで、この元禄の俳人は、このときどんなフォームで石を投げたのだろうか。句の中身とは無関係だが、私としてはとても気になってしまうのである。『前後園』(元禄二年・1689)所収。(清水哲男)




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