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May 1451998

 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

                           種田山頭火

頭火のファンには、圧倒的に女性が多いという。男でなければなし得ぬ「放浪」に、ほとんどフィクションに近いロマンを感じるためではなかろうか。昭和七年(1932)五月、下関に向かう道での句。どこまでもつづく金鳳花の道に、作者は旅にある喜びを全身に感じている。「人間が天然のドラマのなかに繰り込まれている」(金子兜太)ようだ。美しい句である。と同時に、山頭火は当然(大地主の息子ではあったが、農村の出だ)この季節が農民繁忙のときと知っており、この句に添えて「五月は物を思ふなかれ、せんねんに働け、というやうなお天気である、かたじけないお日和である、香春岳がいつもより香春岳らしく峙(そばだ)つてゐる」と書いている。「かたじけない」とは、天に感謝する思いもあるが、この好天に身を粉にして働いている人々に対する気持ちも込められているはずだ。『定本山頭火全集』(春陽堂書店)他に所収。(清水哲男)


March 1632003

 けふいちにち食べるものある、てふてふ

                           種田山頭火

頭火は有季定型を信条とした人ではないので、無季句としてもよいのだが、便宜上「てふてふ(蝶々)」で春の部に入れておく。放浪行乞の身の上で、いちばん気がかりなのは、むろん「食べるもの」だ。それが「けふ(今日)いちにち」は保証されたので、久方ぶりに心に余裕が生まれ、「てふてふ」の舞いに心を遊ばせている。好日である。解釈としてはそんなところだろうが、ファンには申し訳ないけれど、私は何句かの例外を除いて、山頭火の句が嫌いだ。ナルシシズムの権化だからである。元来、有季定型の俳句俳諧は、つまるところ世間と仲良くする文芸であり、有季と五七五の心地よい音数律とは、俗な世間との風通しをよくするための、いわばツールなのである。そのツールを、山頭火はあえて捨て去った。捨てた動機については、伝記などから推察できるような気もするし、必然性はあると思うけれど、それはそれとして、捨てた後の作句態度が気に入らない。理由を手短かに語ることは難しいが、結論的に言っておけば、有季定型を離れ俗世間を離れ、その離れた場所から見えたのは自分のことでしかなかったということだ。そんなことは、逆に俗世間の人たちが最も執心しているところではないのか。だからこそ、逆にイヤでも世間とのつながりを付けてしまう有季定型は、連綿として受け入れられてきているのではないのか。せつかく捨てたのだったら、たとえば尾崎放哉くらいに孤立するか、あるいは橋本夢道くらいには社会批判をするのか。どっちかにしてくれよ。と、苛々してしまう。まったくもって、この人の句は「分け入つても分け入つても」自己愛の「青(くさ)い山」である。『種田山頭火句集』(2002・芸林書房)他に所収。(清水哲男)


March 1432004

 春風のどこでも死ねるからだであるく

                           種田山頭火

者には「風」の句が多い。このことに着目した穴井太は、ユニークな視点から「風になった男」という山頭火論を書いている。ユニークというのは、穴井が「風」という漢字のなかに何故「虫」がいるのかと考えるところからはじめた点だ。「そこで、虫を住まわせている風の語源を探ってみた。いわく『風の吹き方が変わると虫たちが生まれてくる』という。つまり風は季節や時間の動きと同義であった。/言いかえれば、風は自然の生成流転や生命時計の役割を荷っていることになる。だから風のなかにいる虫は、花やすべての生きものたちの代表として、生命あるものを象徴しているのではあるまいか」。ブッキッシュな考察に過ぎると言われればそれまでだが、こと山頭火の句に関しては、この虫の居所からほとんど説明が可能となるのだから面白い。つづいて穴井は「虫が好かない」「虫が好い」などの虫を使った成語を考察し、「科学的な根拠は乏しく、人間の心の感情を指している」ことに注目する。意よりも情、理よりも狂というわけだ。そして「それが生命感を発動するエネルギー源であることは間違いない」と断じ、山頭火の風の句を解釈していく。腹の虫、酒の虫から漂泊の虫、絶望の虫までを持ちだしてみると、なるほど山頭火という男が、要するにその場そのときの虫の居所によって、やたらと句を吐き出していたことがよくわかる。私に言わせれば我がまま三昧の句境であり、掲句などには悟りの虫よりも、「まだ死にたくない、死ぬはずがない」という虫の好い思いが見え隠れしていて、好きになれない。流転の身は、一見中世の隠者に似ていなくもないが、俗世との縁をむしろ結びたがっているところは醜悪にすら写る。山頭火ファンには申しわけないけれど、妻子を放擲してまで詠むような句でもないだろう。(清水哲男)


October 06102007

 歩きつづける彼岸花咲きつづける

                           種田山頭火

月の終わりに、久しぶりに一面の彼岸花に遭遇、秋彼岸を実感する風景だった。すさまじいまでに咲き広がるその花は、曼珠沙華というより彼岸花であり、死人花、幽霊花、狐花などの名で呼ばれるのもわかる、と思わせる朱であった。かつて小学校の教科書に載っていた、新美南吉の『ごんぎつね』に、赤いきれのように咲いている彼岸花を、白装束の葬式の列が踏み踏み歩いていく、という件があったが、切ないそのストーリーと共に、葬列が去った後の踏みしだかれた朱の印象が強く残っている。この句の場合も、彼岸花が群生している中を、ひたすら歩いているのだろう。リフレインも含めて、自然で無理のない調べを持つ句。その朱が鮮やかであればあるほど寂しさの増していく野原であり、山頭火の心である。「種田山頭火」(村上護著)には、「いわゆる地獄極楽の揺れの中で句作がなされた」(本文より)とあり、〈まつすぐな道でさみしい〉と掲句が並んでいる。思いつめた心とはうらはらに、こぼれ出る句は優しさも感じさせる。定型に依存することのない定型句、自由律であるというだけでない自由律句、どちらも簡単にはいかないなあ、と思うこの頃。『種田山頭火』(2006・ミネルバ書房)所載。(今井肖子)


December 30122010

 明日より新年山頭火はゐるか

                           宮本佳世乃

年も余すところ一日となった。明日は朝から掃除、午後はおせち料理に頭を悩ませ、夜は近所の神社へ初詣に出かけることにしよう。平凡だけど毎年変わらぬやり方で年を迎えられるのを幸せに思う。それにしてもこの句「明日より新年」というフレーズに「山頭火はゐるか」と不思議な問いかけが続く。山頭火は放浪の人だからせわしない大晦日も、一人酒を飲んで過ごしていたかもしれない。だとすると家族と過ごす大晦日や正月に縁のない孤独な心が山頭火を探しているのだろうか。そんな寂しさと同時に「さて、どちらへ行かう風がふく」と常にここではない場所をさすらっていた山頭火のあてどない自由が「明日より新年」という不安を含んだ明るさに似つかわしく思える。『きざし』(2010)所収。(三宅やよい)


February 2722011

 この道しかない春の雪ふる

                           種田山頭火

がわかる、というのは詠まれている意味内容に不明な点がないということだけではありません。語られていることがわかっても、どうしてこんなことを句にするのだろうと、思っているうちはたぶんわかっていないのです。あるいは、もともと理解を届かせるほどの句ではないということもあります。今日の句は、意味内容ということでは、前半と後半がどのようにつながっているのかが明解ではありません。でも、全体をそのまま素直に受け止めると、不思議とわかるのです。わかったような気分にさせてくれるのです。そこが大切なのだと思うのです。「この道しかない」と、決断した思いの切れ味と、目の前に降っている柔らかな雪のありさまが、ちょうどよく釣り合っているのです。そうだそうだ、こういうふうにしか詠ってはいけないのだと、思わせてくれる句は、理屈抜きにすごいなと思うわけです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


June 2262012

 死ねない手がふる鈴をふる

                           種田山頭火

頭火は58歳で病死したがその5年前に旅の途中で睡眠薬を大量に飲んで自殺を企てている。結局未遂に終りそのまま行乞の旅を続ける。本来托鉢行とは各戸で布施する米銭をいただきながら衆生の幸せや世の安寧を祈ることだろう。だから鈴をふる祈りには本来は積極的な行の意味があるはずだ。死にたい、死ねないと思いながら鈴をふるのは得度をした人らしからぬことのように思える。しかしながらそこにこそ「俗」の山頭火の魅力が存するのである。「俳句現代」(2000年12月号)所載。(今井 聖)


January 3012015

 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

                           種田山頭火

(ふくろう)は夜行性の猛禽類である。灰褐色の大きな翼で音を立てずに飛翔し小動物を捕獲する。その鳴き声は「ボロ着て奉公」とか「ゴロスケホーホー」などと聞こえてくる。漂浪の俳人山頭火が野宿をしながらそのゴロスケホーをじっと聴いている。梟のほうはそれが本性なのだから眠れないのだが、山頭火の方は淋しくて眠れないのか物を思って眠れないのかやはり闇の中で起きている。誰にだって寝付かれぬ夜はある。他に<だまつてあそぶ鳥の一羽が花なのか><百舌鳥のさけぶやその葉のちるや><啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない>など。『山頭火句集』(1996)所収。(藤嶋 務)




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