シナトラのCDを聞いた。「東京音頭」みたいだが「NEW YORK,NEW YORK」には泣ける。




1998蟷エ5譛17譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

May 1751998

 満塁や青芝遠く緊張す

                           佐久間慧子

の知るかぎり「満塁や」と詠んだ句はこれまでにない。珍品(?)である。作者は阿波野青畝門で関西の人らしいから、甲子園球場だろうか。ドーム球場の人工芝とちがって、天然の青芝はあくまでも目にやさしい。見つめていると、ぼおっと芝生に酔ってしまうときもあるほどだ。そんななかで、ゲームは満塁という緊迫感。こうなると、熱狂的な野球好きであれば、芝生なんぞは目に入らなくなるはずだが、作者は遠くの青芝をうたっている。つまり、作者はそんなに野球そのものに熱が入らない人だと見た。いつのころからか、歳時記には「ナイター」などという和製英語の季語も載るようになったけれど、そうした季語の用例に引かれている句を見ても、シンから野球の面白さを伝えている句を、残念ながら見たことがない。能村研三に「ナイターの風出でてより逆転打」と、多少マシな句もあるが、これとても私には呑気すぎて到底満足とまではいかないのである。もっともっと野球に没入した作品を探している。「俳句文芸」(1998年5月号)所載。(清水哲男)


May 1651998

 二人してしづかに泉にごしけり

                           川崎展宏

かな山の辺。ふと見つけた小さな泉の清冽さに魅かれて、手を浸してみたというところか。連れも誘われるようにして、手を漬けている。二人の手が水中で動くたびに、水底の細かい沙粒がゆるやかに舞い上がり、ほんの少しだけ泉は濁る。児戯に類した行為だが、しかし、二人はしばし水中の手を動かしつづけている。ところで、この連れは女性だろうか。ならば、なかなかに色っぽい。……などとすぐに気をまわすのは下衆のかんぐりというもので、作者はそういうことを言おうとしているのではあるまい。この何ほどのこともない戯れを通じて、自然を媒介にした共通の生命感を分け合っている束の間の喜びが、句の主眼であるからだ。このとき、二人の心は目の前の泉さながらに清冽に澄み、濁り、そして通い合っている。理屈抜きによい句だが、理屈を述べればそういうことだと思う。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


May 1551998

 月残す浅草の空まつり笛

                           杉本 寛

草の祭といえば、江戸三代祭の一つ三社祭だ。現在は五月十七・十八日に近い金曜日(今年は本日)に神輿御魂入れ、土曜日には町内神輿連合渡御、日曜日には本社神輿渡御が行われる。この句は、土曜日か日曜日か、祭の喧騒からちょっと離れたところでの作品だろう。月もおぼろな初夏の宵、浮世絵にでもしたいようなきれいな句だが、1971年の作句。私は長いこと東京に住みながら、まだ一度も三社祭を見たことがない。いつだったか、見に行こうと友人を誘ったら、彼は「止めとけよ、地下鉄の駅を出るのも大変なんだから」とニベもなかった。で、それっきり……。倉田春名に「地下鉄を出るより三社祭かな」がある。ところで現代の「祭」一般は夏の季語であるが、古くは「祭」といえば京都の賀茂祭(葵祭)のことだけをさした。古句を読むときは、要注意である。『杉本寛集』(俳人協会・1989)所収。(清水哲男)

[三社祭情報はここ]今年の神輿の宮出しは十七日午前六時から。今回から、町内を練り歩く三基の神輿の現在位置が、刻々と表示されるそうです。その他、浅草情報の豊富なベージ。




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