cF句

May 1851998

 木苺の種舌に旅はるかなり

                           千代田葛彦

いがけなくもひさしぶりに、実に四十年ぶりくらいに、木苺を味わうことができた。京都在住の友人である宇佐美斉君から「つぶれないでうまく着くといいのですか……」という手紙が添えられて、昨日日曜日の朝に届けられたからだ。昨今は冷蔵して送れる宅配便があるからであって、昔であればとてもこんな芸当はできなかった。ほとんどつぶれないで、うまく届いてくれた。宇佐美君は昨年の6月6日のこのページを読んでくれ覚えてくれていて、多忙ななかをわざわざ摘んで送ってくれたのである。変わらぬ友情に深謝。早速その一粒を舌の上に乗せると、まことに鮮やかに田舎での少年時代のあれこれがよみがえってきた。陶然とした。芭蕉のように人生を旅だと規定するならば、気分はこの句の作者と同様に「はるかなり」の感慨で一致したのである。そして野趣に富んだ木苺の味は、多く種の味に依っているのだと、いまさらのように納得した次第でもある。(清水哲男)


February 1822001

 ひとり旋る賽の河原の風ぐるま

                           千代田葛彦

の知るかぎり、最も不気味にして印象的な風車の句。ご承知のように「賽(さい)の河原」は、死んだ幼な子がもっとも辛酸をなめさせられる場所だ。父母の供養のために石を積んで塔を作ろうとしていると、鬼が現われては壊してしまう。そんな苦しみの河原に、子供の大好きな玩具である風車が「ひとり旋(まわ)」っているというのである。「廻る」や「回る」ではなく「旋る」という字をあてたのは、「旋風(つむじかぜ・せんぷう)」の連想から、猛烈な風の勢いのなかでの回転を表現したのだろう。あの河原には、常に寒風が吹きあげている。春のそよ風に廻る風車には優しい風情があるけれど、揚句のそれはひたすら非情に回転しつづけているばかり。私のイメージでは、この風車は巨大なもので、しかも虚空に浮かんでおり、回転速度がはやいために色彩は灰色にしか見えない。「旋る」音も軽快な感じではなく、吹き上げる強風に悲鳴をあげているような……。こんなふうに想像を伸ばしていくと、どんどん怖くなりそうなので止めておくが、とにかく「賽の河原」に「風車」を持っていくとは、度肝を抜かれる発想だ。脱帽ものである。口直しに(笑)、三好達治の一句を。「街角の風を売るなり風車」。なんて詩人はやさしいんだろう。『合本・俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


March 2132005

 風の日の記憶ばかりの花辛夷

                           千代田葛彦

語は「辛夷(こぶし)」で春。近所の辛夷が咲きはじめた。まだ三分咲きといったところだろうか。が、辛夷の開花スピードは速いので,あと三、四日もすれば満開になるにちがいない。辛夷は背の高い木だから、たいていは花も仰ぎ見ることになる。でも、我が家の居間はマンションの一階だけれど、真っすぐ水平に目をやれば見ることができる。というのも、居間から出られる猫の額ほどの庭の塀の向こう側が小さな崖状になっていて、その下の小公園に植えられているからだ。木の高さは、十メートル程度はあるだろう。その高いところがちょうど正面に見えるわけで、咲きはじめるとイヤでも目に入ってくる。花辛夷見物特等席なり。で、もうかれこれ四半世紀は、毎春この花を正面に見てきたことになり、たしかに句にあるように「風」の記憶とともにある。早春の東京は風の強い日が多く,ときに花辛夷は無数の白いハンケチがちぎれんばかりに振られている様相を呈する。子供のころからこの季節の風は体感的に寒いので嫌いだったが,コンタクトをするようになってからは実害も伴うので,ますます嫌いになった。そんなわけで外出の折りには、いつの頃からか、あらかじめこの花辛夷の揺れ具合を確かめるのが癖になり、揺れていないと機嫌良く出かけられるということに……。ま、風速計代わりですね。掲句の実景は、ちょうどいまごろの様子だろうか。あるいはまだ、まったく咲いていないのかもしれない。また風の季節がやってくるなと,作者は来し方の早春のあれこれを漠と思い出している。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2542009

 姉といふ媼もよけれ諸葛菜

                           千代田葛彦

しい友人の妹さん曰く「おばあちゃんになったら、お姉ちゃんと二人きりで向かい合って千疋屋で苺パフェを食べたいの。お母さんやお父さんの思い出話して、あんな事もあったね、こんなこともあったね、なんて言いながら・・・それが夢なのよ」。ちなみに友人は独身で、妹さんには現在育ち盛りの息子が二人。小さい頃はけんかばかりでも、ある程度の年齢になった姉妹には、不思議な心のつながりがある。この句の作者は男性なので、姉に対する気持ちはまた違うと思うが、媼(おうな)という呼び名に違和感のないお年頃の姉上に注がれる、変わらぬやさしい愛情が感じられる。花大根、むらさきはなな、などさまざまな名前を持つ諸葛菜。ふだんはどうしても、線路際に群れ咲くイメージだが、先日近郊の野原に咲くこの花を間近で見る機会があり、車窓を流れるいつもの紫より心なしか色濃く、一花一花に野の花としての愛らしさが見えた。作者もきっと、そんな瞬間があったのでは、と諸葛菜に姉上の姿を重ねてみるのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




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