花屋で季節外れのコスモスの花を売っている。温厚(?)な私もさすがにカッときた。




1998ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2051998

 水平ら安曇は空に田を植うる

                           森 澄雄

葵(わさび)の名産地としても知られているくらいだから、信州安曇(あずみ)は水のきれいなところ。その清らかな水が、どこまでもつづく広大な田圃一面に張られ、田植えがはじまっている。おりからの好天に水は鏡のように青空を写していて、さながら空に田を植えているようだ。清冽爽快、気持ちのよい句である。農家の人々の労苦を脇にして思えば、田圃とは面白い場所だ。こんなにも満々たる水を広大な土地に平らに張れるところなどは、田圃を除いては他にないからである。その意味では、田圃はあくまでも人工的な自然管理の場所なのであり、巨大な箱庭のようである。したがって、逆に稲作農家の人はなかなかこういう具合には詠めないだろう。彼はまず、どうしても田圃に「設計」を感じてしまうはずだからだ。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)


May 1951998

 すき嫌ひなくて豆飯豆腐汁

                           高浜虚子

飯は蚕豆(そらまめ)や青豌豆(グリーンピース)を炊き込んだご飯で、この季節の食卓にふさわしい。虚子の句は豆づくしであるが、自分には好き嫌いがないのでこれで満足だと言うのである。素朴な季節料理でも、不平などないということで、明るい句に仕上がった。ということは、逆に言うと、豆飯が嫌いな人も昔から多かったことがわかる。私の周辺でも、グリーンピースの青臭さが嫌いで、客席などでのやむを得ないときには、実に器用に豆だけをよけて飯を食う人がいる。私のように豆好きな人間からすると不可解としか思えないが、嫌いな人にとっては必死の箸さばきなのだろう。そういう人から見ると、この句の作者は「自慢」の権化のように思えるに違いない。食文化に民主主義は通用しないのだ。(清水哲男)


May 1851998

 木苺の種舌に旅はるかなり

                           千代田葛彦

いがけなくもひさしぶりに、実に四十年ぶりくらいに、木苺を味わうことができた。京都在住の友人である宇佐美斉君から「つぶれないでうまく着くといいのですか……」という手紙が添えられて、昨日日曜日の朝に届けられたからだ。昨今は冷蔵して送れる宅配便があるからであって、昔であればとてもこんな芸当はできなかった。ほとんどつぶれないで、うまく届いてくれた。宇佐美君は昨年の6月6日のこのページを読んでくれ覚えてくれていて、多忙ななかをわざわざ摘んで送ってくれたのである。変わらぬ友情に深謝。早速その一粒を舌の上に乗せると、まことに鮮やかに田舎での少年時代のあれこれがよみがえってきた。陶然とした。芭蕉のように人生を旅だと規定するならば、気分はこの句の作者と同様に「はるかなり」の感慨で一致したのである。そして野趣に富んだ木苺の味は、多く種の味に依っているのだと、いまさらのように納得した次第でもある。(清水哲男)




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