北上市の詩歌文学館へ。13年ぶりの北上。ということはもう干支が一巡したわけだ。




1998蟷エ5譛23譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

May 2351998

 麦の秋朝のパン昼の飯焦し

                           鷹羽狩行

だちゃんとしたトースターも、ましてや電気炊飯器もなかった時代。パンを焦したり飯を焦したりしているのは、新婚後間もない妻である。そんな新妻の失敗を仕様がないなと苦笑しながらも、作者はもちろん新妻を可愛く思っているのだ。おそらく窓外に目をやれば、黄色に熟した麦畑が気持ち良くひろがっていたのであろう。初夏の爽快な季節感も手伝って、結婚した作者の気持ちは浮き立っている。新婚の女性の気持ちはいざ知らず、結婚したてのたいがいの男は、このように妻の失敗を喜んで許している。そこが実は、その後の結婚生活のそれこそ失敗の元になるのだ……などと、余計なことを言い立てるのは愚の骨頂というものであって、ここはひとつ静かに微笑しておくことにしたい。ところで、立派なトースターや炊飯器の備わっている現代の新妻には、どんな失敗があるのだろうか。……と、すぐにまた野暮なことを言いかける我が野暮な性分。『誕生』(1965)所収。(清水哲男)


May 2251998

 初松魚燈が入りて胸しづまりぬ

                           草間時彦

会の人が初松魚(はつがつお)に出会うのは、たいていが小料理屋か酒場だろう。この季節、どこの店に寄っても、天下を取ったように「初松魚(初鰹)」の文字が品書きに踊っている。私などもその一人だが、さしたる好物でもないのに、つい注文してしまったりする客は多い。初物の魔力だ。ところで、作者は顔馴染みか常連のよしみで、開店前の酒場に入れてもらったのである。鰹が入ったという店主のすすめに注文したまではよかったが、まだ入口に燈の入っていない店内というものは、どうも落ち着かない。このあたり、酒飲みの人にはよくわかるだろうが、いつもとは違う肴を前にすればなおさらに落ち着かない気分である。そうこうするうちに、やっと表に燈が点った。やれやれ、という心持ちの句。間もなくだんだんと、見知った顔も入ってくるだろう。そして、みんなが「初松魚」に一瞬顔を輝かせるだろう。(清水哲男)


May 2151998

 青あらし神童のその後は知らず

                           大串 章

あらし(青嵐)は、青葉の頃に吹き渡るやや強い南風のことで、夏嵐とも言う。子規の「夏嵐机上の白紙飛び尽す」が有名だ。中学時代に、教室で習った。嵐とはいっても、翳りのない明るい風である。そんな風のなかで、作者はかつて神童と呼ばれていた人のことを思い出している。ときに「どうしているかな」と気がかりな人ではあるが、地域を出ていった後の消息は絶えている。風に揺れる青葉のように、まぶしいほどの才能を持っていた人だ。が、かといって、今の作者はその人の消息を切実に知りたいと願っているわけでもないだろう。青葉のきらめきに少し酔ったように、かつての才子を懐しんでいるのである。「神童」とは、昔の地域共同体が生んだいわば神話的人物像である。だから、今は伝説のなかに生きていればそれでよいのだと、作者は思っている。「神童も二十歳過ぎればただの人」という意地悪な川柳(?)もあるけれど、この句の人は消息不明だけに、その意地悪からは免れている。それでよいと、やはり読者も作者にここで同感するのである。『山童記』(1984)所収。(清水哲男)




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