創立70周年の神奈川大学が高校生の俳句を募集。選者に金子兜太、大串章らの諸氏。




1998N530句(前日までの二句を含む)

May 3051998

 麥爛熟太陽は火の一輪車

                           加藤かけい

読、ゴッホの絵を連想した。ここにあるのはゴッホの太陽と、ゴッホ的な気質である。爛熟した麥の穂波にむせ返るような情景が、ぴしりと捉えられている。実際の麦畑に立った者でなければ、このような押さえ方はできない。「麦の秋」などと、多くの俳人は遠目の麦畑を詠んできた。作者については長谷部文孝氏の労作『山椒魚の謎』(環礁俳句会・1997)に詳しいが、同書によれば、この句には西東三鬼門の鈴木六林男から早速イチャモンがついた。「モチーフを明確に表出したとき、このようなことになる。俳句はこゝからはじまり、これは俳句ではない。感覚から表現へのプロセス作業を途中でナマけた天罰である」(「天狼」1963年11月号)。こんなふうに言われたら、私などは再起不能になりそうな酷評だが、私はこのときの六林男には与しない。簡明直截にして、しかも抽象化された世界。とても「感覚から表現へのプロセス作業を途中でナマけた」結果とは思えないからである。『甕』(1970)所収。(清水哲男)


May 2951998

 紙魚ならば棲みても見たき一書あり

                           能村登四郎

環境の変化のせいだろうか。最近は、めったに紙魚(しみ)を見かけることもなくなった。住環境の変化ばかりではなく、もっと大きな自然の働きによるものかもしれない。なにしろ人間サマの精子が激減しているというご時世だから、紙魚などの下等な虫が生きていくのは、さぞや大変なことなのだろう。じめじめとした暗いところを好み、本であれ衣服であれ、澱粉質のものにならば何にでも食らいつく(衣服についたほうの虫は「衣魚」)。仮に自分がそんな虫だったら、ぜひとも住んでみたい本があるという句だ。このとき、作者は78歳。それはどんな書物なのだろうか……。と、句の読者は必ず好奇心を抱くにちがいない。同時に、自分にもそんな本があるだろうか、あるとすれば、誰が書いた何という本なのか……と、自分自身に問いかけるはずである。もちろん私も考えたが、紙魚にまでなって住みつきたいと思う本はなかった。あなたの場合は、いかがでしょうか。『長嘯』所収。(清水哲男)


May 2851998

 目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹

                           寺山修司

節は五月。紺碧の空高く、一羽の鷹が悠々と旋回している。見上げていると、雄々しい鷹の気概が地上の矮小な心の持ち主を叱咤し、律しているように感じられる。そのあまりにも雄渾な鷹の姿が目に焼きついて離れず、床についたいまも自分を支配しつづけてやまない……。「統ぶ」は「すぶ」。句意はこのようなものだろうが、作者十代の作品というから驚く。描きたい世界を描いて、過不足なく完璧である。一般に鷹は冬鳥とされ種類も多いから、五月に舞う鷹といっても、具体的なイメージは湧いてこない。おそらくは作者も、具体的な鷹を指し示したつもりはなかっただろう。「鷹」という言葉から連想される普通の映像であればよく、現実的に鷹が飛んでいたというよりも、寺山修司という個性が理想的な鷹を創造して、大好きだった五月の空に飛翔させたのである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)




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