待望(谷崎潤一郎が嫌った下品な表現)の36度台。乾杯ッ。とはまだいかないか…。




1998ソスN6ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0561998

 ゆくりなく途切れし眠り明易し

                           深谷雄大

くりなくも旧友に出会った。……などと、普通「ゆくりなく」は「思いがけなく」といったような意味で使われる。「ふと」などより心情的色彩が濃い言葉だ。したがって、夢が「ゆくりなく」も途切れることはあっても、自然体の眠りについての言葉としてはそぐわない。眠りそのものには、眠っている人の意志や心が関与していないからだ。人は毎朝思いがけず目覚めているのではなくて、自らの心のありようとは無関係に起きているはずである。そのことを承知で、作者は自然に目覚めたのにも関わらず、眠りが「ゆくりなく」も早めに中断されたとボヤいている。理不尽と捉えている。ここが面白い。などと呑気に書いている私も、実はこのところよく思いがけない(ような)目覚めに出会う羽目になってきた。ひとえに年齢のせいだと思っているのだが、夜明け前直前くらいに目覚めてしまい、後はどうあがいても眠れなくなってしまうのだ。こいつは、かなり苦しいことである。老人の早起き。あれはみな、本人にとっては睡眠の強制執行停止状態なのだろう。となれば、老人の眠りに限っては「ゆくりなく」の使用がノーマルに思えてくる。「俳句界」(1998年6月号)所載。(清水哲男)


June 0461998

 雨あとの土息づくや茄子の花

                           松本一枝

蔵野市内の小学校の給食メニューに、今月が旬の食べ物として「茄子」があがっていた。昔は梅雨明け頃だったように思うが、今ではそういうことになってきたようだ。それはともかく、茄子は葉の蔭に淡い紫色の花をつける。よく見ると、なかなかに可憐で美しい花である。花になんて目もくれなかった少年時代に、この花だけには「ちょっと、いいな」と思った記憶がある。私の花への初恋だ。茄子は水をたくさんほしがる植物だから、さぞかし梅雨の季節は嬉しい気持ちだろう。作者にその知識があるかどうかは別にして、句は見事に雨上がりの後の茄子の花の美しさを表現しきっている。土が「息づく」と見えるのも、ひとつにはそこに茄子の花が咲いていたからである。野菜の花とは、総じて可憐であり命は短い。(清水哲男)


June 0361998

 おとり鮎息はずむなる休ませる

                           瀧井孝作

慢じゃないが、鮎釣りの経験はない。気分が良さそうだなとは思っているが、チャンスに恵まれずに来てしまった。したがって、友釣りの何たるかも知らない。私と同じように友釣りを知らない読者のために、作者自身による解説を書きとめておく。「鮎は、きれいな水の中の石に生える美しい水垢をたべて育つので、鮎は、その食糧のある場所を、常に守つて見張つてゐて、他の鮎がその場所に近づくと、体当りでブツかつて、追ひはらふ習性があります。友釣は、この習性を利用して、一尾の鮎を囮に使つて、釣るのです」。そして、この囮の鮎には釣針のついた釣糸が結びつけられているのだから、体当たりした鮎が釣針に引っ掛かる仕掛けだ。引っ掛かる鮎も哀れだが、囮役も大変だ。引き上げてみると息をはずませている。しばらく休ませてやろうという作者の優しさに、句の味わいがある。だったら、友釣りなんかはじめからしなければいいのに。そんな声も聞こえてきそうだ。二日酔いの亭主に向かって「何もそんなになるまで飲まなくても……」というどなたかのご意見に似ている。『海ほほづき』(1960)所収。(清水哲男)




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