トタンの屋根が富裕の象徴。マリ共和国でボランティア活動に従事している人の話。




1998N610句(前日までの二句を含む)

June 1061998

 梅雨茸や勤辞めては妻子飢ゆ

                           安住 敦

雨茸は、梅雨時に生じる茸の総称。季節が季節だけに、みな陰湿な感じがする。この句に触れて共感しないサラリーマンは、まず皆無なのではあるまいか。作者は、後年次のように自註している。「『妻子飢ゆ』はすこし悲愴調だが、事実こうでも言わなければおさまらないほど、当時勤めが憂鬱で辞めることばかり考えていた。俳句で食っていけるともいこうとも思わなかったが、いやな勤めならやめてしまえばいい、何とかやっていけるだろう、ふみ切ればいいのだと思いながらやはりその決断がつかなかった。(中略)人生五十代も終わろうとしての、無能な男の焦燥がわがことながらいたわしい」。句は1965年に書かれていて、この国の経済は上り坂にあった。還暦目前の男にも「何とかやっていけるだろう」という雰囲気だけはあったわけだが、今の不景気の最中ではそれすらもない。句の持つやりきれなさは時代とともに変化し、現代において最もその暗い顔を見せているというべきか。それにしても、この句が何のことやら不可解になるような時代は、いつか来ることがあるのだろうか。来そうもないですなア。『午前午後』(1972)所収。(清水哲男)


June 0961998

 金塊のごとくバタあり冷蔵庫

                           吉屋信子

後三年目の夏の句。いまでこそバターはどこの家庭にもあるが、戦中戦後はかなりの貴重品であった。冷蔵庫(電気冷蔵庫ではない)のある家も極めて少なく、それを持っている作者は裕福だったと知れるが、その裕福な人が「金塊」のようだというのだから、バターの貴重度が理解できるだろう。冷蔵庫のなかでひっそりと冷えているバター。それは食べ物ではあるけれど、食べるには惜しい芸術品のようなものですらあった。十歳を過ぎるころまで、私などは純正のバターを見たこともない。作者の吉屋信子は、戦前の少女小説などで一世を風靡した作家。先日、天澤退二郎さんに会ったとき、彼が猛烈なファンだったと聞いた。彼女の少女小説をリアルタイムで読めた年齢は、天澤さんや私の世代が最下限だろう。吉屋信子の俳句開眼は戦時中の鎌倉で、相当に熱心だったらしい。防空頭巾姿で例会に出かけてみたら、警報の最中で誰も来なかったという「たった一人の句会」も体験している。「ホトトギス」雑詠欄巻頭を飾ったこともある。自費出版で句集を出したいという夢を生涯抱きつづけていたが、適わなかった。出たのは没後二年目である。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


June 0861998

 開くかな百合は涙を拭いてから

                           折笠美秋

白の百合である。百合の開花を、このように人間的に、しかも高貴に捉えた句を他に知らない。作者は百合という生命体を心からいとおしみ、自己衰亡につながる開花を決然とやってのける姿に打たれている。もとより百合自身にそんな意識はないのであるが、それがそのように見えるのは、作者の生命に対する畏怖であり畏敬の念からである。見事なほどに美しい句だ。たしかに、百合は決然と花開く。そうか、そしてその前にはひっそりと涙を拭いているのか。折笠美秋は東京新聞の優れた記者であると同時に気鋭の俳人として活躍していたが、志半ばにして病に倒れた。ベッドでの思いを、夫人が口の動きだけを頼りに書きとめた文章のごく一部を紹介しておく。「……奇妙な病魔に冒され、五体萎えて動かず、ほぼ意のままに動かし得るのは、目と口とのみである。その口も音声を発し得ず、目もまた、いたずらに白い天井を睨むばかりである。/字が書きたい」。病名を筋萎縮性側索硬化症というが、当人には知らされなかった。『君なら蝶に』(1986)所収。(清水哲男)




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