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June 1161998

 百姓に泣けとばかりや旱梅雨

                           石塚友二

姓は差別用語だそうな。馬鹿を言っちゃあいけないと、百姓の伜であった私は腹が立つ。故郷の友人は、みな自分の職業をすらりと「百姓」と言う。誰が考えたのか「農業専従者」だなんて、アホらしくて名乗れたものじゃない。顔が赤くなる。ところで、今年の梅雨はまずはマトモで安心していられそうだが、ときに旱(ひでり)梅雨となる年がある。いわゆる空梅雨だ。百姓の仕事は、言うならば天を相手に大博打を打っているようなものだから、こいつは心底タマらない。水気の薄い青田を前にして呆然としている百姓爺の濡れた目は、一度見たら忘れられるものではない。作者には高等小学校を卒業してから三年間ほどの百姓体験があり、都会に住んでからも「百姓というものに無関心で過ごせない人間」となった。だからこその「泣けとばかりや」……。感傷ではあるのだが、百姓の仕事に結果だけを求める風向きのなかで、この感傷にはそんな風向きに抗う凛とした響きがある。梅雨期を無事に過ぎれば過ぎたで、今度は日照時間の問題、次には台風と、これからも百姓の天を睨む生活はつづいていく。が、たまに会うと、田舎の友人は必ず「清水よ、百姓は面白いぞ。最近は仕事も楽だしな」と言う。『曠日』所収。(清水哲男)


June 1162010

 空梅雨の黒々とくる夜空かな

                           中村夕衣

という字がふたつあり、一方は「から」一方は「そら」。雨は空からくるものだから梅雨と空はイメージが重なる。夜は暗いものだから黒々と夜は重なる。全部で13文字のあちこちで意味や背景や色の印象が重なり、ふつうなら欠点となるその重複感が逆に圧倒的な天空の黒の量感を出している。意図しても得られない世界というと作者にとってうれしい評言かどうかはわからぬが、言葉のイメージの足し算引き算に長けた人にはこんな句はできない。計算づくでは得られない世界をどうやって計算して出すか。古典への造詣などを知的背景として蓄えたあげくに童心に戻ることができるか。それは芭蕉が心に置いたことでもあった。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)




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