あなたを待てば雨が降る……。吉田正氏死去。大人の歌える大衆歌曲の終焉である。




1998ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1161998

 百姓に泣けとばかりや旱梅雨

                           石塚友二

姓は差別用語だそうな。馬鹿を言っちゃあいけないと、百姓の伜であった私は腹が立つ。故郷の友人は、みな自分の職業をすらりと「百姓」と言う。誰が考えたのか「農業専従者」だなんて、アホらしくて名乗れたものじゃない。顔が赤くなる。ところで、今年の梅雨はまずはマトモで安心していられそうだが、ときに旱(ひでり)梅雨となる年がある。いわゆる空梅雨だ。百姓の仕事は、言うならば天を相手に大博打を打っているようなものだから、こいつは心底タマらない。水気の薄い青田を前にして呆然としている百姓爺の濡れた目は、一度見たら忘れられるものではない。作者には高等小学校を卒業してから三年間ほどの百姓体験があり、都会に住んでからも「百姓というものに無関心で過ごせない人間」となった。だからこその「泣けとばかりや」……。感傷ではあるのだが、百姓の仕事に結果だけを求める風向きのなかで、この感傷にはそんな風向きに抗う凛とした響きがある。梅雨期を無事に過ぎれば過ぎたで、今度は日照時間の問題、次には台風と、これからも百姓の天を睨む生活はつづいていく。が、たまに会うと、田舎の友人は必ず「清水よ、百姓は面白いぞ。最近は仕事も楽だしな」と言う。『曠日』所収。(清水哲男)


June 1061998

 梅雨茸や勤辞めては妻子飢ゆ

                           安住 敦

雨茸は、梅雨時に生じる茸の総称。季節が季節だけに、みな陰湿な感じがする。この句に触れて共感しないサラリーマンは、まず皆無なのではあるまいか。作者は、後年次のように自註している。「『妻子飢ゆ』はすこし悲愴調だが、事実こうでも言わなければおさまらないほど、当時勤めが憂鬱で辞めることばかり考えていた。俳句で食っていけるともいこうとも思わなかったが、いやな勤めならやめてしまえばいい、何とかやっていけるだろう、ふみ切ればいいのだと思いながらやはりその決断がつかなかった。(中略)人生五十代も終わろうとしての、無能な男の焦燥がわがことながらいたわしい」。句は1965年に書かれていて、この国の経済は上り坂にあった。還暦目前の男にも「何とかやっていけるだろう」という雰囲気だけはあったわけだが、今の不景気の最中ではそれすらもない。句の持つやりきれなさは時代とともに変化し、現代において最もその暗い顔を見せているというべきか。それにしても、この句が何のことやら不可解になるような時代は、いつか来ることがあるのだろうか。来そうもないですなア。『午前午後』(1972)所収。(清水哲男)


June 0961998

 金塊のごとくバタあり冷蔵庫

                           吉屋信子

後三年目の夏の句。いまでこそバターはどこの家庭にもあるが、戦中戦後はかなりの貴重品であった。冷蔵庫(電気冷蔵庫ではない)のある家も極めて少なく、それを持っている作者は裕福だったと知れるが、その裕福な人が「金塊」のようだというのだから、バターの貴重度が理解できるだろう。冷蔵庫のなかでひっそりと冷えているバター。それは食べ物ではあるけれど、食べるには惜しい芸術品のようなものですらあった。十歳を過ぎるころまで、私などは純正のバターを見たこともない。作者の吉屋信子は、戦前の少女小説などで一世を風靡した作家。先日、天澤退二郎さんに会ったとき、彼が猛烈なファンだったと聞いた。彼女の少女小説をリアルタイムで読めた年齢は、天澤さんや私の世代が最下限だろう。吉屋信子の俳句開眼は戦時中の鎌倉で、相当に熱心だったらしい。防空頭巾姿で例会に出かけてみたら、警報の最中で誰も来なかったという「たった一人の句会」も体験している。「ホトトギス」雑詠欄巻頭を飾ったこともある。自費出版で句集を出したいという夢を生涯抱きつづけていたが、適わなかった。出たのは没後二年目である。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます