相場はトリプル安の展開。国家自体が相場師とならざるをえない時代がやってきた。




1998ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1261998

 提燈花要所に点る城の径

                           甲斐遊糸

燈花は釣鐘草ともいい、蛍袋の名でも知られる。先の二つは花の形状からの命名で、蛍袋はこの花に蛍を入れて遊んだことから名付けられたようだ。などと書くと、いかにも物知りみたいだが、提燈花をそれと意識して見たのは最近のことだ。この花のことは以前から気になっていて、よく行く野草園の植えられている場所まで知っているのだが、花季にめぐりあったことがなかった。ところが先日、放送局の応接机に何気なく目をやると、なんとたくさんの提燈花が無造作に活けられてあるではないか。誰に名前を聞かなくても、私にはすぐにわかった。ちょっと興奮した。その興奮の余韻で、実はこの句を角川版の歳時記から引いたのだが、なるほどこの見立ては面白い。城への径には、あたかも人が要所に提燈を配置したように提燈花が点(とも)っていたというのである。見立ては、下手をすると大野暮になる。その意味からすれば,この句は、野暮ギリギリのところでの寸止めが小気味よく利いていると思う。これ以上突っ込んだら、あざとくなる。作者は大串章主宰「百鳥」同人。(清水哲男)


June 1161998

 百姓に泣けとばかりや旱梅雨

                           石塚友二

姓は差別用語だそうな。馬鹿を言っちゃあいけないと、百姓の伜であった私は腹が立つ。故郷の友人は、みな自分の職業をすらりと「百姓」と言う。誰が考えたのか「農業専従者」だなんて、アホらしくて名乗れたものじゃない。顔が赤くなる。ところで、今年の梅雨はまずはマトモで安心していられそうだが、ときに旱(ひでり)梅雨となる年がある。いわゆる空梅雨だ。百姓の仕事は、言うならば天を相手に大博打を打っているようなものだから、こいつは心底タマらない。水気の薄い青田を前にして呆然としている百姓爺の濡れた目は、一度見たら忘れられるものではない。作者には高等小学校を卒業してから三年間ほどの百姓体験があり、都会に住んでからも「百姓というものに無関心で過ごせない人間」となった。だからこその「泣けとばかりや」……。感傷ではあるのだが、百姓の仕事に結果だけを求める風向きのなかで、この感傷にはそんな風向きに抗う凛とした響きがある。梅雨期を無事に過ぎれば過ぎたで、今度は日照時間の問題、次には台風と、これからも百姓の天を睨む生活はつづいていく。が、たまに会うと、田舎の友人は必ず「清水よ、百姓は面白いぞ。最近は仕事も楽だしな」と言う。『曠日』所収。(清水哲男)


June 1061998

 梅雨茸や勤辞めては妻子飢ゆ

                           安住 敦

雨茸は、梅雨時に生じる茸の総称。季節が季節だけに、みな陰湿な感じがする。この句に触れて共感しないサラリーマンは、まず皆無なのではあるまいか。作者は、後年次のように自註している。「『妻子飢ゆ』はすこし悲愴調だが、事実こうでも言わなければおさまらないほど、当時勤めが憂鬱で辞めることばかり考えていた。俳句で食っていけるともいこうとも思わなかったが、いやな勤めならやめてしまえばいい、何とかやっていけるだろう、ふみ切ればいいのだと思いながらやはりその決断がつかなかった。(中略)人生五十代も終わろうとしての、無能な男の焦燥がわがことながらいたわしい」。句は1965年に書かれていて、この国の経済は上り坂にあった。還暦目前の男にも「何とかやっていけるだろう」という雰囲気だけはあったわけだが、今の不景気の最中ではそれすらもない。句の持つやりきれなさは時代とともに変化し、現代において最もその暗い顔を見せているというべきか。それにしても、この句が何のことやら不可解になるような時代は、いつか来ることがあるのだろうか。来そうもないですなア。『午前午後』(1972)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます