2030年には紙媒体消滅と塚本慶一郎氏。そんな世の中を見てみたい。無理だろうな。




1998ソスN6ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1861998

 学校をろうやにしているつゆの空

                           大橋清和

藤園主宰「おーいお茶俳句大賞」の第七回入賞句。作者は小学生か。雨降りつづきで、校庭で遊べない環境を「ろうや」みたいだと言っている。いかにも子供らしい発想を評価されての入選だろう。ただし、採り上げておいて文句を言うのも気がひけるが、私が選者だったら、この句によい点は入れない。子供としての作者の発想が、あまりにも類型的だからだ。それも、大人の描く子供像にはまり過ぎている。黛まどか主宰「東京ヘップバーン」のOL句にも共通する類型の「お化け」が、「らしさ」が鼻につく。最近はあちこちで子供の俳句大会が催されるが、入選句はおおむね類型沈没型であり、どうも面白くない。何かの雑誌で荒川洋治が讃めていた「群馬県異状乾燥注意報」のような破天荒な(?)発想の句のほうが、よほど子供らしいと思う。でも、作者の名誉のために付言しておけば、類型的であれ、表現力には確かなものを感じさせる。私がはじめて教室で作ったのは「春がきて小鳥さえずりたのしそう」という類型沈没の最たるものであり、思いだすのも恥ずかしい句だ。家に戻って父親に見せたら「こんなものは俳句じゃない」と一蹴された。こんなのに比べれば、大橋君の腕前はたいしたものではあるのだけれど。『十七文字のチカラコブ』(1996)所収。(清水哲男)


June 1761998

 バナナむく吾れ台湾に兵たりし

                           鈴木栄一

つての戦争とバナナとは、イメージ的に強烈な結び付きがあった。作者のように、兵隊として実際に台湾バナナを食べた人もいるけれど、多くの国民にとっては、バナナは南洋の夢の食べ物として垂涎の的なのであった。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』にも盛んにバナナが登場し、庶民にとっては日本の南方進出の象徴としての食べ物だったわけだ。「青いバナナも黄色く熟れて……」という歌も流行したが、しかし、戦争中の国内でバナナを口にできた人は少なかったはずである。私のように『冒険ダン吉』の絵でしかバナナを知らない子供も多かったろう。それでも、わずかに乾燥バナナだけは出回っており、その干涸びたバナナでも美味は美味だった。敗戦後しばらくの間はその乾燥バナナさえ姿を消してしまったが、高校時代に偶然、立川駅の売店で発見したときは嬉しかった。買ってみると、包装紙にはなにやら英語が書いてあって、アメリカ軍御用達の趣きがあったことを覚えている。戦時中の日本のそれも、軍隊の保存食用に開発されたものではないかと思う。バナナと戦争。詳しく調べれば、興味深いノンフィクションが書けるかもしれない。(清水哲男)


June 1661998

 団扇膝に立て世界は左右に分れけり

                           上野 泰

扇(うちわ)が世界を二つに分けるという発想は、上野泰の感性ならではのものだ。文句なしに面白い。ただし、面白いと感じるのは、ほとんどそれとは意識せずに、私たちもまた日常的にこういうことをやっているからだろう。剣客の塚原卜伝は背後から打ち込まれたとき、咄嗟に目の前の鍋の蓋を防具にしたというが、そこまで実践的とはいかずとも、人が手にする物は本来の用途とは異なる精神的心理的な防具や武器などになる場合がある。たとえば、ニュースキャスターでいつも鉛筆を持って放送している人がいる。あれはメモを取るという本来の用途とは別に、彼の鉛筆には剣の意味もあるわけで、心理的な自己防衛のための小道具なのである。見ていると、後者の役割のほうが大きいことがわかる。そういうことの延長上に、この団扇も別の意味をもって現象しており、世界を真二つに切断する強力な刃、ないしは巨大な壁のように機能している。かくのごとくに団扇一枚で世界を左右に分ける男もいれば、団扇の持ちようで全身を完璧に隠せる女もいる……。すなわち、小は大を兼ねるのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)




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