サクランボをいただいた。今日は桜桃忌。太宰ファン必見の三鷹市のホームページ




1998ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1961998

 あひみての後の日傘をひるがへす

                           中尾杏子

作だと思う。情景としては、人と会った後で別れ際にさっと日傘をひるがえしたという女性の仕種を詠んでいる。これだけでも十分に華麗な身のこなしが伝わってくるが、それだけではない。百人一首でおなじみの「逢見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」(権中納言敦忠)の「あひみての」を踏んでいて、この言葉は会っていた相手と自分との関係を示唆している。すなわち「あひみる」は、たとえば『徒然草』に「男女の情けも、ひとへにあひみるをばいふものかは」とあるように、事は「男女の情け(男女の契り)」に関わっているのであり、ここを踏まえて読むと、句は日傘をひるがえす女の心理にまで到達していることがわかる。別れがたいところを、日傘をひるがえすことにより相手との関係を断ち切った……。そんな心理が魅力的に描かれている。作者には他に「惜春の真赤な卓に身を溶かす」などがある。この句もまた情意に満ちていて、凡手ではないことをうかがわせる。情景へのアクセスが素早く、しかも人間的に極めて美しいアクセス・アングルだ。「俳句文芸」(1998年6月号)所載。(清水哲男)


June 1861998

 学校をろうやにしているつゆの空

                           大橋清和

藤園主宰「おーいお茶俳句大賞」の第七回入賞句。作者は小学生か。雨降りつづきで、校庭で遊べない環境を「ろうや」みたいだと言っている。いかにも子供らしい発想を評価されての入選だろう。ただし、採り上げておいて文句を言うのも気がひけるが、私が選者だったら、この句によい点は入れない。子供としての作者の発想が、あまりにも類型的だからだ。それも、大人の描く子供像にはまり過ぎている。黛まどか主宰「東京ヘップバーン」のOL句にも共通する類型の「お化け」が、「らしさ」が鼻につく。最近はあちこちで子供の俳句大会が催されるが、入選句はおおむね類型沈没型であり、どうも面白くない。何かの雑誌で荒川洋治が讃めていた「群馬県異状乾燥注意報」のような破天荒な(?)発想の句のほうが、よほど子供らしいと思う。でも、作者の名誉のために付言しておけば、類型的であれ、表現力には確かなものを感じさせる。私がはじめて教室で作ったのは「春がきて小鳥さえずりたのしそう」という類型沈没の最たるものであり、思いだすのも恥ずかしい句だ。家に戻って父親に見せたら「こんなものは俳句じゃない」と一蹴された。こんなのに比べれば、大橋君の腕前はたいしたものではあるのだけれど。『十七文字のチカラコブ』(1996)所収。(清水哲男)


June 1761998

 バナナむく吾れ台湾に兵たりし

                           鈴木栄一

つての戦争とバナナとは、イメージ的に強烈な結び付きがあった。作者のように、兵隊として実際に台湾バナナを食べた人もいるけれど、多くの国民にとっては、バナナは南洋の夢の食べ物として垂涎の的なのであった。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』にも盛んにバナナが登場し、庶民にとっては日本の南方進出の象徴としての食べ物だったわけだ。「青いバナナも黄色く熟れて……」という歌も流行したが、しかし、戦争中の国内でバナナを口にできた人は少なかったはずである。私のように『冒険ダン吉』の絵でしかバナナを知らない子供も多かったろう。それでも、わずかに乾燥バナナだけは出回っており、その干涸びたバナナでも美味は美味だった。敗戦後しばらくの間はその乾燥バナナさえ姿を消してしまったが、高校時代に偶然、立川駅の売店で発見したときは嬉しかった。買ってみると、包装紙にはなにやら英語が書いてあって、アメリカ軍御用達の趣きがあったことを覚えている。戦時中の日本のそれも、軍隊の保存食用に開発されたものではないかと思う。バナナと戦争。詳しく調べれば、興味深いノンフィクションが書けるかもしれない。(清水哲男)




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