選挙。どの政党も同じ方向を向いている印象。薄味か濃い味かの違いしかないね。




1998ソスN6ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2561998

 冷奴酒系正しく享け継げり

                           穴井 太

父も大いに飲み、父もまた酒好きだった。そしてこの私においても、酒系は見事にも正しく受けつがれている。血は争えない。冷奴で一杯やりながら、作者は真面目な顔で感じ入っている。といって、別に感心するようなことでもないが、この自己納得の図はなんとなく可笑しい。酒飲みという人種はまことにもって仕様がないもので、いちいち飲む理由をつけたがる。冠婚葬祭なら大威張りで飲めるが、そうでないときは隙あらば飲みたいがために、いつも理由を探しまわっている。しかし、結局は何だっていいのだ。そんなことは当人も百も承知であるが、一応理屈をつけておかないと、はなはだ飲み心地がよろしくない。世間に対して(たいていの場合、世間とは連れ合いのことである)後ろめたい。したがって、付き合いで(つまり、仕方なく)飲むというのが、理由のなかでも高い位置を占めるのであり、句のような一人酒ではこれも通用しないから、究極的には酒系に落ち着くことになる。ご先祖のせいにしてしまう。同じ作者で、もう一句。「筍さげ酒にすべきか酒にする」。筍のせいにしている。『原郷樹林』(1991)所収。(清水哲男)


June 2461998

 蜜豆は豪華に豆の数少な

                           川崎展宏

党ではないのに、無性に蜜豆を食べたくなるときがある。寒天の口当たりが好きなのと、なんだか色々とゴチャゴチャ入っている様子が目に楽しいからである。蜜豆の豆は茹でた豌豆(えんどう)。ネーミングからすると豆が主役みたいだが、豆単体では美味とは言えず、要するに何が主役なのかわからない食べ物である。したがって「豪華に少ない」という形容矛盾は、蜜豆に限っては矛盾しないというわけだ。豆が少なく感じられるほどに、色とりどりの脇役(?)がどっさり入っている楽しさ。なるほど「豪華に少ない」としか言いようがない。作者の新発見である。つまり、詩である。蜜豆の句で有名なのは、山口青邨の「蜜豆の寒天の稜の涼しさよ」だ。なるほどと私も思うが、この人、そんなに蜜豆が好きではないような気がする。食べたいという気持ちよりも前に、よい句にしたいという気取りが透けて見えている。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


June 2361998

 雨の日は傘の内なり愛国者

                           摂津幸彦

ういう句を読むと、俳句はつらいなと思う。愛国者の「主義主張」も「悲憤慷慨」も、しょせんは雨に濡れるのを嫌う普通の人々と同じ思考回路(傘)の内にある……。と、一つの読み方はこれでよいと思うが、しかし、ここでは肝腎の「愛国者」の顔がまったく見えてこない。あまりにも漠然としていて、つかみ所がないのである。こいつは、読者には大いに困る事態なのだ。なぜこうなるかは、もちろん俳句が短いという単純な理由によるわけで、作者の「愛国者」観は永遠に作者の内(傘の内)に閉じ込められたままとなっている。そこで読者としては、俳句お得意の取り合わせの妙があるかどうか、作者によって各自にゆだねられた「愛国者」観を通して、それを感じるしかないということになってしまう。作者の書き残した散文を読むと、単なる取り合わせだけに終わっている句を嫌悪しているが、そしてこの句は確かに「単なる取り合わせ」の殻を破ろうとしていることだけはわかるが、しかし結局は取り合わせで読まれるしかない不幸を構造的に背負ってしまっている。そんなハンデを百も承知で、なぜ摂津幸彦は俳句に執したのだろうか。句の「愛国者」をこれまた曖昧な概念の「売国奴」に入れ替えたとしても、作者のねらいは少しも変わらないのではないかと、私には思える。俳句は自由詩じゃない。だからこのように、誰かがつらいシーンを引き受けなければならない場合もあるということなのか。『奥野情話』(1977)所収。(清水哲男)




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