新聞写真。サッカーの応援かと思ったら選挙戦での応援だった。この錯覚は必然だ。




1998ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2661998

 壷に咲いて奉書の白さ泰山木

                           渡辺水巴

品だ。というのも、まずは句の花の位置が珍しいからである。泰山木の花は非常に高いところ(高さ10メートルから20メートル)に咲くので、たとえ自宅の庭に樹があったとしても、花を採取すること自体が難しい。したがって、多くの歳時記に載っている泰山木の花の句に、このように近景からとらえたものは滅多にない。ほとんどが遠望の句だ。この句は、平井照敏編『新歳時記』(河出文庫・1989)で見つけた。で、読んですぐ気にはなっていたけれど、なかなか採り上げることができなかったのは、至近距離で泰山木の花を見たことがなかったからである。遠望でならば、母校(都立立川高校)の校庭にあったので、昔からおなじみだった。ところがつい最近、東大の演習林に勤務している人に会う機会があり、その人が大事そうに抱えていた段ボール箱から取り出されたのが、なんと泰山木の純白の花なのであった。直径25センチほどの大輪。そして、よい香り……。近くで見ても、一点の汚れもない真っ白な花に、息をのむような感動を覚えた。そのときに、この句がはじめてわかったと思った。作者もきっと、うっとりとしていたにちがいない。なお、「奉書」とはコウゾで作られた高級な和紙のことをいう。しっとりと白い。(清水哲男)


June 2561998

 冷奴酒系正しく享け継げり

                           穴井 太

父も大いに飲み、父もまた酒好きだった。そしてこの私においても、酒系は見事にも正しく受けつがれている。血は争えない。冷奴で一杯やりながら、作者は真面目な顔で感じ入っている。といって、別に感心するようなことでもないが、この自己納得の図はなんとなく可笑しい。酒飲みという人種はまことにもって仕様がないもので、いちいち飲む理由をつけたがる。冠婚葬祭なら大威張りで飲めるが、そうでないときは隙あらば飲みたいがために、いつも理由を探しまわっている。しかし、結局は何だっていいのだ。そんなことは当人も百も承知であるが、一応理屈をつけておかないと、はなはだ飲み心地がよろしくない。世間に対して(たいていの場合、世間とは連れ合いのことである)後ろめたい。したがって、付き合いで(つまり、仕方なく)飲むというのが、理由のなかでも高い位置を占めるのであり、句のような一人酒ではこれも通用しないから、究極的には酒系に落ち着くことになる。ご先祖のせいにしてしまう。同じ作者で、もう一句。「筍さげ酒にすべきか酒にする」。筍のせいにしている。『原郷樹林』(1991)所収。(清水哲男)


June 2461998

 蜜豆は豪華に豆の数少な

                           川崎展宏

党ではないのに、無性に蜜豆を食べたくなるときがある。寒天の口当たりが好きなのと、なんだか色々とゴチャゴチャ入っている様子が目に楽しいからである。蜜豆の豆は茹でた豌豆(えんどう)。ネーミングからすると豆が主役みたいだが、豆単体では美味とは言えず、要するに何が主役なのかわからない食べ物である。したがって「豪華に少ない」という形容矛盾は、蜜豆に限っては矛盾しないというわけだ。豆が少なく感じられるほどに、色とりどりの脇役(?)がどっさり入っている楽しさ。なるほど「豪華に少ない」としか言いようがない。作者の新発見である。つまり、詩である。蜜豆の句で有名なのは、山口青邨の「蜜豆の寒天の稜の涼しさよ」だ。なるほどと私も思うが、この人、そんなに蜜豆が好きではないような気がする。食べたいという気持ちよりも前に、よい句にしたいという気取りが透けて見えている。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)




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