June 271998
泉辺の家消えさうな子を産んで
飯島晴子
飯島晴子はシンカーの名人だ。直球のスピードで来て、打者の手元ですっと沈む。この句で言えば、出だしの「泉辺の家」は幸福の象徴のように見える「けれん味のない直球」だが、つづいての「消えさうな」で、すっと沈んでいる。ここで、読者は一瞬戸惑う。そして、次の瞬間にはその鮮やかな沈みように感心する。「消えさうな」のは「家」でもあり「子」でもある。明暗の対比の妙。つまり作者の作句上のテーマは、常識的な情緒には決して流されないということだろう。見かけだけの明るさをうたっていたのでは、いつまでたっても俳句は文学的に生長していかない。人間の真実を深いところでとらえられない。そうした意識が作家の目を生長させた結果が、たとえばこの句に結実している。ひらたく言うと、飯島晴子のまなざしは常に意地が悪いとも言えるのである。天真爛漫など信じない目だ。もう一句。「幼子の肌着をかへる夏落葉」。これも相当に怖い作品だ。可愛いらしい幼子の周辺に、暗い翳がしのびよっている。『定本・蕨手』(1972)所収。(清水哲男)
May 112002
夏落葉有髪も禿頭もゆくよ
金子兜太
季語は「夏落葉」。常磐木落葉(ときわぎおちば)という季語もあるように、夏に落葉するのは椎や樫などの常緑樹。落葉樹は晩秋に葉を落とすが、これは寒くて日照時間の少ない冬を生きのびるために、なるべくエネルギーを使わないですむようにとの自然の自衛策だ。対するに、常緑樹の落葉は加齢にしたがっての老化現象による。葉の寿命は、一般的には二、三年だそうだ。したがって、人間の髪の毛が脱落する原因は、常緑樹のそれに似ていると言えるだろう。句は、ひっそりと葉の舞い落ちてくる道を大勢の人が歩いているという、何の変哲もない情景設定だ。その歩いている人たちを、あえて「有髪(うはつ)」と「禿頭(とくとう)」に着眼し分類してみせたところが面白い。有髪であれ禿頭であれ、常緑樹だってホラこのように葉を落とすのだから、五十歩百歩でたいした違いがあるわけじゃない。すでに禿頭の作者は、達観しているというのか居直っているというのか、なんだか愉快な気分にすらなっている。有髪の人だと、こういうことは思いつきもしないだろう。そこがまた、掲句が何がなしペーソスすら感じさせる所以でもあると思った。それにしても、兜太ほどに禿頭句を多産している俳人はいない。そのあたりを考え合わせると、達観からでも居直りからでもなく、もはや「愛」からであると言うべきか。『金子兜太集・第一巻』(2002・筑摩書房)所収。(清水哲男)
May 202008
刻いつもうしろに溜まる夏落葉
岡本 眸
樫(かし)や楠(くす)などの常緑樹は緑の葉のまま冬を過ごしたあと、初夏に新葉が出てから古い葉を落とす。常磐木(ときわぎ)落葉とも呼ばれる夏の落葉と、秋から冬にかけての落葉との大きな違いは、新しい葉に押し出されるように落ちる葉なので、どれほど散ろうと決して裸木にならないことだろう。鬱蒼と青葉を茂らせたまま、枯葉を降らせる姿にどことなく悲しみを感じるのは、常緑樹という若々しい見かけの奥のひそやかな営みが、ふと顔を見せるためだろうか。紅葉という色彩もなく、乾ききった茶色の葉が風にまかせてぽろりぽろりと落ちていく。しかも、常緑樹はたいてい大樹なので、ああ、この茂りのなかにこんなにも枯れた葉があったのかと驚くほどきりもなく続き、掃いても掃いてもまた同じ場所に枯葉が落ちることになる。掲句はまた、時間は常にうしろに溜まっていくという。「うしろ」のひと言が、ひっそりと過去の時間をふくらませ、孤独の影をまとわせる。生きるとは、きっとたくさんの時間の落葉を溜めていくことなのだろう。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)
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