選挙の掲示板。あんなものはいらない。江戸時代じゃあるまいし税金の無駄使いだ。




1998ソスN6ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 3061998

 外を見る男女となりぬ造り滝

                           三橋敏雄

女の機微に疎い人は(といって、私が敏いというわけではありません。念の為)、二人が仲違いしたのかと誤解するかもしれない。事実はその逆で、いうところの「深い仲」になった感慨が詠まれているのである。新婚なのか不倫なのか、はたまた行きずりの恋なのか。定かではないけれど、いや、そんなことはどうでもよろしいのであって、とりあえず旅館というような場所では、外を見るしか所在のないのがこういうときである。二人は、べつに滝を観賞しているわけではない。宿屋がこれみよがしに造成した滝が、いちばん目立つので、仕方なく目をやっているだけの話だ。それにしても、この国の宿屋の庭には悪趣味が目立つ。造り滝といい枝々をひねくりまわした松といい、さらには死にそうな鯉を泳がせている池といい、あれらは全体いかなる美意識の産物なのであろうか。そんな野暮な庭のおかげをこうむるのは、こういうときだけだ。つまり、悪趣味も人助けになるときもあるということ。が、その庭すらも存在しない現今のラブホテルでは、こんなときの二人はどうするのだろうか。たぶん、見たくもないテレビのスイッチを入れて、外を見ている気分になるのであろう。『まぼろしの鱶』(1966)所収。(清水哲男)


June 2961998

 玉葱の皮むき女ざかりかな

                           清水基吉

が玉葱をむいている。いまが旬の玉葱は、つややかにして豊満である。その充実ぶりは台所に立つ女にも共通していて、作者は一瞬、まぶしいような気圧されるような気分になった。女と玉葱。言われてみると、なるほどと思う。色っぽい。まさに取り合わせの妙というべきだろう。ただし一方では、悲しいことに、人はおのれの「さかり」を自覚できないということがある。玉葱をむいているこの女性も、そんなことは露ほども感じていないだろう。さすれば句のように、いつも「さかり」は他人が感じて、その上で規定し定義する現象である。そういう目で見ると、この句は色っぽさなどを越えて、人が人として存在する切なさまでをも指さしているようだ。以下は蛇足。規定し定義するといえば、辞書や歳時記はそのためにあるようなものだけれど、こうした本で調べて、何かがわかるということは意外にも少ない。手元の歳時記で「玉葱」とは何かを調べてみよう。「直径九センチ、厚さ六センチぐらいの偏平な球形。多く夏に採取する。たべるのは鱗形で、内部は多肉で、特異の刺激性の臭気がある。初秋のころ、白色もしくは淡緑色の小花を球形につづる。わが国へは明治初年の渡来」(角川版『俳句歳時記新版』・1974)。玉葱を知らない人が読んだら、かえって何がなんだかわからない。で、知っている人が読んでも、玉葱の実物とはかなり違う感じを受けるだろう。もちろん、事は玉葱だけに関わる問題じゃない。どうして、こんなことになっちまうのか。(清水哲男)


June 2861998

 さみだれを集めて早し最上川

                           松尾芭蕉

っている人もいると思うが、この句の原形は「さみだれを集めて涼し最上川」であった。泊めてくれた船宿の主人に対して、客としての礼儀から「雨降りのほうが、かえって涼しくていいですよ」と挨拶した句だ。それを芭蕉は『おくのほそ道』に収録するに際して、「涼し」を「早し」と改作した。最上川は日本三大急流(あとは富士川と球磨川)のひとつだから、たしかにこのほうが川の特長をよくとらえており、五月雨の降り注ぐ満々たる濁流の物凄さを感じさせて秀抜な句に変わっている。ところで、実は芭蕉はこのときにここで舟に乗り、ずいぶんと怖い目にあったらしい。「水みなぎつて舟あやうし」と記している。だったら、もう少し句に実感をこめてくれればよかったのにと、私などは思ってしまう。単独に句だけを読むと、最上川の岸辺から詠んだ句みたいだ。せっかく(?)大揺れに揺れる舟に乗ったのに、なんだか他人事のようである。このころの芭蕉にいまひとつ近寄りにくい感じがするのは、こういうところに要因があるのではなかろうか。もしかすると「俳聖」と呼ばれる理由も、このあたりにあるのかもしれない。そういえば、実際にはおっかなびっくりの旅だったはずなのに、『おくのほそ道』の句にはまったくあわてているフシがみられない。関西では昔から、こういう人のことを「ええカッコしい」という。(清水哲男)




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