1998N7句

July 0171998

 夏痩せて豆腐一丁の美食思う

                           原子公平

べなければいけないと思うと、かえって食べたくなくなる。そしてふと、こういうことを思いついたりする。「豆腐一丁の美食」とは、何かの逸話か故事を踏まえているのかもしれない。このように、消滅の方向に向いた極端には「美」がある。しかし、ダイエットにはない。ダイエットは、一見肉体を滅ぼす行為に見えるが、結局は自己の消滅を望んではいないからである。消滅どころか再生を欲望する企みにすぎないからだ。ところで豆腐といえば、江戸天明期に『豆腐百珍』という本が出版されている。豆腐料理のレシピ集だ。最近入手した現代語訳本(京都山科・株式会社「大曜」刊)で見てみると、それぞれの料理には「尋常品」「通品」から「妙品」「絶品」まで六段階のランクづけがあって、眺めているだけで楽しい。夏痩せとも「美」とも関係なく、つくって食べてみたくなってしまう。ここで「絶品」のページから「辛味とうふ」の作り方をお裾分けしておこう。試したわけではないので責任は持てないが、うーむ、こいつは相当に辛そうですぞ。酒肴でしょうね。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)

[辛味とうふ]かつおの出し汁に、うす醤油で味をつけ、おろし生姜をたくさん入れます。たっぷりした出し汁で、豆腐を一日中たきます。豆腐一丁につき、よく太った一握りほどの生姜を十個ほど、おろして入れるとよいでしょう。


July 0271998

 夕顔の男結の垣に咲く

                           小林一茶

集をめくっていて、ときどきハッと吸い込まれるような文字に出会うときがある。この場合は「男結(おとこむすび)」だ。最近はガムテープやら何やらのおかげで、日常的に紐を結ぶ機会が少なくなった。したがって「男結」(対して「女結」がある)という言葉も、すっかり忘れ去られてしまっている。が、たまに荷造りをするときなどには、誰もが男結びで結ぶことになる。ほどけにくい結び方だからだ。つい四半世紀前くらいまでは、言葉としての「男結」「女結」は生きていたのだから、それを思うと、私たちの生活様式の変わりようには凄まじいものがあって愕然とする。さて、肝腎の句意であるが、前書に「源氏の題にて」とあるので、こちらはおのずからほどけてくる。「夕顔」は源氏物語のヒロインのひとりで、十九歳の若さで急死した女性だ。彼女の人生のはかなさと夕顔の花のそれとがかけられているわけで、光源氏を「男結」の男に連想したところが、なんとも憎らしいほどに巧みなテクニックではないか。考えてみれば、一茶が見ているのは、単に垣根に夕顔が咲いている情景にすぎない。そんな平凡な様子が、名手の手にかかると、かくのごとくに大化けするである。俳諧、おそるべし。中村六郎校訂『一茶選集』(1921)所収。(清水哲男)


July 0371998

 俤や夢の如くに西瓜舟

                           石塚友二

まには回顧趣味満点の句もいいものだ。俤(おもかげ)は、作者少年時代の初恋の人のそれである。舞台は「水の都」と言われていた頃の新潟だ。当時の(大正期の)様子を、作者は次のように書き記している。「堀割が縦横に通っていた時分の新潟は、そこが舟の通路でもあったから、夏は西瓜を積んだ舟が通り、主婦や女中といった人達がそれを買うべく岸の柳の下に佇む風景が見られたものである。また夕刻には褄取った芸者達の柳の下を縫いながらお座敷へ行く姿もあった」。この様子からして情緒纏綿……。年経た作者(六十九歳での作句)の回顧趣味を誘いだすには、絶好の舞台装置である。なお、俤の人のその後の消息についても若干の記述があり、句そのものが触発する情緒には無関係であるが、こういうことであったようだ。「それから凡そ五十年後、ふとしたことからその人の消息を聞かされた。若くして結婚したが、良人との関係が巧く行かず、三十歳を過ぎたばかりで自殺し世を去った、と」。ちなみに「西瓜」は「南瓜」とともに秋の季語とされている。現代ではどうかと思うが、特に受験生諸君は注意するように(笑)。『自選自解・石塚友二句集』(1979)所収。(清水哲男)


July 0471998

 河鹿鳴く夕宇治橋に水匂ふ

                           皆吉爽雨

都は宇治川畔の美しい夏の夕暮れの風情。絵葉書にしたいような旅人の歌だ。作者は中洲である塔の島あたりから、宇治橋を眺めているのだろうか。高い宇治橋の上からでは、水の流れる音しか聞こえないはずだからだ。そして何をかくそう、私がこの宇治橋の畔にひょろりと登場(笑)したのは、今から四十年前のことであった。当時の京都大学の新入生は、みな宇治分校なる「チョー田舎のボロ校舎」に集められたからである。で、最近この句に出会って考えるに、はたして宇治川辺りで河鹿が鳴いていたかということだが、まったくもって記憶がない。橋のたもとに出ていた屋台で、毎晩キャベツだけを肴に(なにしろキャベツは無料だったから)、共に飲んだくれていた佃学が生きていたら確かめようもあるのだけれど、それも適わない。大いに河鹿は鳴いていたのかもしれないが、旅人と違って、住みついた人間の耳や目は環境に慣れ過ぎてしまい鈍感になるので、こういうことになってしまう。一昨年の夏、多田道太郎さんのお宅をベースに、余白句会の仲間で宇治を訪れた。もちろん宇治橋も見に行った(!)が、もはやこの句のような美しさとは完璧に無縁であった。(清水哲男)


July 0571998

 雨蛙めんどうくさき余生かな

                           永田耕衣

衣、七十代後半の句。雨蛙の体の色は葉の上など緑のなかでは緑色をしているが、木の幹や地上に下りると途端に茶色に変色する。保護色の好例として、小学校の教室でしばしば引き合いに出されてきた。人間には保護色はないのだけれど、考えてみれば、状況に応じて態度を変えるなどしているわけで、心理的精神的な保護色はあると言わなければなるまい。ただし雨蛙が自然に体色を変えられるのとは違って、私たちの場合は、意志的にそれをする必要がある。そこが実になんとも「めんどうくさい」と感じることになる年代が「余生」だと、作者は述べている。きょとんとした雨蛙と、何もかもを面倒くさく感じはじめた俳人との取り合わせは、ペーソスの味を越えた不思議な明るい世界に通じているとも読める。「余生」を自覚するのは人それぞれのきっかけからだろうが、作者の場合はそんじょそこらの雨蛙に触発されての自覚であった。私などは「いつ死んでもおかしくない年齢」の自覚はあっても、どこかで「余生」とは認めたくない小賢しい気持ちのままに生きている。いずれ、作者のようにそんじょそこらの「何か」に、否応もなく「余生」を告知されるのであろう……。『殺祖』(1981)所収。(清水哲男)


July 0671998

 梅雨明けの鶏を追ふ歩幅かな

                           今井 聖

し飼いの鶏。といっても、夜は鶏舎に収容する。外敵から守るためと、卵を所定の場所で産ませるためだ。夕暮れ近くになって、あちこちにいる鶏たちを鶏舎に追い込むことを「鶏(とり)を追ふ」という。スケールは違うが、牛を集めてまわるカウボーイの仕事と同じだ。忙しい農家で「鶏を追ふ」のは、たいていが子供の仕事であった。小学生の私も毎夕追っていたが、なかには言うことを聞かないヤツもいて、暗くなっても探しまわったこともある。なにせ卵は農家の現金収入では大きな位置を占めていたので、一羽くらいいなくなってもいいやとはならないのである。梅雨が明ければ、ぬかるみに足を取られることもなく、この仕事は快適になる。地面は「梅雨明けのただちに蟻の影の道」(井沢正江)となるからだ。作者はその快適さを「鶏を追ふ」人の歩幅に象徴させている。一読して、私には納得できた句だ。作者は十代からセンスのよい俳句を書き、現在はシナリオ・ライターでもあって、映画『エイジアンブルー』(残念ながら、私は未見)の脚本などで知られている。「俳句文芸」(1998年7月号)所載。(清水哲男)


July 0771998

 鳶鳴きし炎天の気の一とところ

                           中村草田男

に最も多産だった草田男らしい晴朗な一句。炎天にげんなりするのではなく、むしろ烈日を快としている。慶応義塾の応援歌ではないが、まさに「烈日の意気高らかに」ではないか。鳶の鳴き声、その「一とところ」に「気」を感じたということは、すなわち作者一人(いちにん)の気力充実ぶりを表現しているのである。体調も、すこぶるよろしい。不調だったら、とてもこうは詠む気になれないだろう。生きていることへの喜びでいっぱいだ。このとき、作者の人生は全面的に肯定されている。草田男は常々「二百年は生きるつもりだ」と語っていたというが、自然へのこうした溶け込みようを見せられると、この言説にも素直に頷けるのである。同時期に発表された「炎天や鏡の如く土に影」にしても、微塵の自虐性もない。とりわけて近代の文芸においては「自虐」の分量が芸術的な価値につながるようなところがあり、それはまた歴史的な必然ではあるのだけれど、ときにこのような文芸的発想も見直しておく必要がある。さらに一句。「妻戀し炎天の岩石もて撃ち」。いずれも、草田男壮年三十八歳の作品である。『火の鳥』(1939)所収。(清水哲男)


July 0871998

 でで虫や父の記憶はみな貧し

                           安住 敦

生、小さな殻に閉じこもって生きる「でで虫(蝸牛)」。雨露をなめ、若葉を食べる。それが父親の貧苦の生涯を連想させるのである。作者に語ってもらおう。「中学の卒業式に、父は古いモーニングを着て参列した。わたくしは総代として答辞を読んだ。式が終わると親子は一緒に校門を出、通りがかりの蕎麦屋へ上って天ぷら蕎麦を食べた。お前、大学へいきたかったんだろうね、と父は思い出したように言った。でもいいんですよ、とわたくしも素直に答えた。済まないね、といって父は眼をしばたたいた。わたくしの思い出のうち最もさびしい父の姿だった」。大正十五年(1926)三月の話。したがって、卒業したのはもちろん旧制中学(東京・立教中学)だ。作者は十八歳。父親に対して「いやいいんですよ」というていねいな言葉づかいが、当時の父子の距離感を表している。私も、両親に対してはほとんどこのような言葉づかいで通してきた。親が率先して友だちのように振る舞うようになったのは、ほんの最近のことだ。教師においても、また然り。どちらがよいとは言えないけれど、親子の距離は自立への道の遠近を暗示しているようには思える。『暦日抄』(1965)所収。(清水哲男)


July 0971998

 鼻さきに藻が咲いてをり蟇

                           飴山 實

の花の咲いている池の辺で、作者は蟇(ひきがえる)を見つけた。蟇は俳人と違って風流を解さないから、鼻先に藻が咲いていようと何が咲いていようと、まるで意に介さずに泰然としている。当たり前の話ではあるが、なんとなく可笑しい。グロテスクな蟇も、ずいぶんと愛敬のある蛙に思えてくる。このあたりの技巧的表現は、俳句ワールドの独壇場というべきだろう。蟇の生態をつかまえるのに、こんなテもあったのかと、私などは唸ってしまった。なお、蝦蟇(がま)は蟇の異名である。蟇の研究をしている人の本を読んだことがあるが、彼らの世界には一切闘争という行為はないそうだ。そして、親分もいなければ子分もいない。私たち人間からすれば、まさに彼らは「ユートピア」の住人であるわけだが、数はどんどん減少しているという。誰が減らしているのかは書くだけ野暮というものだけれど、最近では確かに、滅多にお目にかかる機会がない。戦前のエノケンの歌の文句に、財布を拾ってやれ嬉しやと、明るいところでよく見てみたら「電車に轢かれたひきがえる……」というのがあった。それほどに、都会にもたくさん彼らはいたということである。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


July 1071998

 ぬけおちて涼しき一羽千羽鶴

                           澁谷 道

は、全国的に千羽鶴の出番だ。高校野球のベンチには、すべといってよいほどに千羽鶴がかけられている。お百度参りなどと同じで、累積祈願のひとつだ。祈りをこめて同一の行為を数多く繰り返すことにより、悲願達成への道が開けるというもので、現代っ子にも案外古風なところがある。しかも、千羽鶴の場合は行為の結果が目に見えるということがあるので、人気も高いのだろう。ただし、千羽鶴は見た目には暑苦しいものだ。多種の色彩の累積は、とても涼しくは見えない。作者はそこに着目して、何かの拍子に落ちてしまった一羽を詠んでいる。言われてみると、なるほどこの一羽だけは涼しげではないか。「哀れ」という感性ではなく「涼し」という感覚でつかまえたところが、凡手ではないことをうかがわせる。澁谷道は医学の人(平畑静塔に精神神経科学を学ぶとともに俳句を師事)だから、安手なセンチメンタリズムに流されることがなく、独特の詩的空間をつくってきた。この千羽鶴も、たぶん入院患者のためのものだろう。が、高校野球のベンチの光景などにもつながる力と広がりをそなえている。『藤』(1977)所収。(清水哲男)


July 1171998

 夏痩せて身の一筋のもの痩せず

                           能村登四郎

ーワードは「身の一筋のもの」である。夏負けで身体全体が少々痩せてきても、この部分だけは痩せてはいないと、作者は言っている。さてそれならば、「身の一筋のもの」とは何だろうか。読者が男性であれば(いや、男性でなくとも)、たぶん「ははあ、アレのことか」とすぐに見当がつくのではなかろうか。これを精神的なアレだと思った人は、生来のカマトトだろう。私も、みなさんと同じように(!?)即物的に「アレのことか」と思った次第だ……。で、そう思った次には、すぐに「よく言うよ」と思って笑ってしまい、その次にはしかし、なんだか妙な気分に捉われてしまった。この句に詠まれていることが本当かどうかという問題ではなくて、ヒトの身体というものの寂しさを、この句が象徴しているように思えたからである。自分の身体は、死ぬまで自分と一緒である。あたかもそれは「不治の病」と同じような関係構造を有しているのであり、その意味から言うと、人は誰でも「自分という病」を、身体的には先験的に病んでいるのだとも言える。そこらあたりのことを、しかし俳人はかくのごとくに「へらへらっ」とした調子で詠んでみせる。もしかしたら持ち合わせている「身の一筋のもの」が、かなり私などとは異なるのかもしれない。そんな不安にもさいなまれそうになる作品だ。『民話』(1972)所収。(清水哲男)


July 1271998

 かなしみの芯とり出して浮いてこい

                           岡田史乃

語は「浮いてこい」。「ええっ」と思う読者のほうが、もはや多数派だろう。かくいう私も、書物のなかだけの知識しかなく、江戸時代の玩具から発した季語のようだ。「浮人形」ともいい、要するに夏の水遊びで、いまの幼児も遊ぶ〔と思うけど〕金魚だとか舟や鳥の形をしたおもちゃだと思えばいいらしい。昔、縁日でよく見かけた樟脳などを利用して水面を走らせるセルロイド製の船も、「浮いてこい」の仲間だと、書物には書いてある。むろん作者は実物を知っているわけだが、この句を読むと、そうした玩具のイメージよりも「浮いてこい」という言葉のほうに発想の力点がかかっていると思える。たかが玩具なのだけれど、その名前を知っている作者にしてみれば、そのちっぽけな姿にすら声援を送りたい何か悲しい事情があったのだろう。芯を取り出したいのは、作者のほうなのだ。それにしても「浮いてこい」とは、面白いネーミングではある。たぶん昔の親は、この玩具を水の中に沈めては、浮いてこないのではないかと心配顔の子供に「浮いてこい」と唱えさせたのだろう。さて、「浮いてこい」がいまの縁日にあるかどうか、機会があったら探してみることにしよう。『浮いてこい』〔1983〕所収。(清水哲男)


July 1371998

 けふのことけふに終らぬ日傘捲く

                           上田五千石

日中にやっておかなければならないことを、結局は果たせなかった。といっても、そんなに大きな仕事ではない。ちょっとした用事や挨拶など。帰宅して日傘を捲きながら、少し無理をしてでも終わらせておけばよかったのにと、軽い後悔の念にとらわれている状態だろう。そうした思いを断ち切るかのように、キリッと傘を捲き上げるのだ。こういうことは、よくある。少なくとも、私にはよく起きる。しかし、世の中には恐ろしいほどにスケジュールに忠実な人もいて、きちんきちんと仕事や用事をこなしていく。その様子は傍目で見ていても気持ちがよいものだが、どうしても私には真似ができない。生来のモノグサということもあるけれど、突然スケジュールにはなかったスケジュールが出てくることが多く、その枝葉のほうのスケジュールに没入してしまいがちからだ。パソコンで手紙を書こうとして、ふとやりかけていたゲームの続きにはまりこんでしまうようなもので、こうなるともうイケない。日傘を捲くどころか、日傘の存在すら失念してしまうのである。『俳句塾』〔1992〕所収。(清水哲男)


July 1471998

 香水や闇の試写室誰やらん

                           吉屋信子

写室は特権的な場だ。一般の人にさきがけて映画を見られるのだから、そこに来るのは映画会社が宣伝のためになると踏んだ人々ばかりである。プロの評論家や新聞記者の他には、おおおむね作者のような有名人に限られている。したがって、そんなに親しい関係ではなくても、試写室に出入りする人たちはお互いほとんど顔見知りだと言ってよい。作者はそんな闇のなかで香水の匂いに気づき、はてこの香水の主は誰だったかしらと考えている。よほど映画がつまらなかったのかもしれない。あるいは逆に映画は面白いのだけれど、香水の匂いが強すぎて腹を立てているとも読める。試写室は狭いので、強い香水はたまらない。馬鹿な派手女めが、という気持ち。いつぞや乗ったタクシーの運転手が言っていた。「煙草もいやだけれど、なんてったって香水が大敵だね。まさかねえ、お嬢さん、風呂に入ってきてから乗ってくださいよとも言えねえしさ」。試写室ではないが、放送局のスタジオでも強い香水は厳禁だ。といって誰が禁じているわけでもないのだが、自然のマナーとして昔からそういうことになっている。『吉屋信子句集』〔1974〕所収。(清水哲男)


July 1571998

 扇子低く使ひぬ夫に女秘書

                           藤田直子

かの用事で会社の夫を訪ねたのだろう。重役室か部長席か、秘書がいるのだから、夫の地位は相当に高いと知れる。そして、その女秘書は作者よりもだいぶ若いし美人でもある。見るともなく見ていると、仕事ぶりもてきぱきしている。で、使っている扇子の位置が自然に普段よりも低くなったというのだが、これはまた実に見事な心理描写だ。「扇子低く使ひぬ」とは、何のためなのか。女秘書に対して、それからその場にいる夫に対しても、自分の存在を少しでも大きく強く認識させようとしたためである。そんなことくらいで存在を大きく強くアピールできるわけもないのだが、そこはそれ、人間心理の微妙なところではあるまいか。共に働く女秘書と夫に対する軽い嫉妬の心が、思わずも扇子を低く使う仕草に表われていたというわけだ。しかも、その心理と仕草を覚えていてこのように書きとめた作者の腕前は、たいしたものだと思う。凡手は、ここを見逃す。見逃して、蝶よ花よとあたりを見回す。あえて見回さなくても、俳句の素材はみずからの心理や行為のうちにいくらでもあるし、発見できるというサンプルみたいな作品だ。うわぁ、説教臭くなっちゃった。『極楽鳥花』〔1997〕所収。(清水哲男)


July 1671998

 祭まへバス停かげに鉋屑

                           北野平八

スを待つ間、ふと気がつくとあちこちに鉋屑〔かんなくず〕が散らばっている。どこからか、風に吹かれてきたものだろう。一瞬怪訝に思ったが、そういえば町内の祭が近い。たぶん、その準備のために何かをこしらえたときの鉋屑だろう。そう納得して作者は、もう一度鉋屑を眺めるのである。べつに祭を楽しみにしているわけではなく、もうそんな季節になったのかという淡い感慨が浮かんでくる。作者は私たちが日頃つい見落としてしまうような、いわば無用なもの小さなものに着目する名人だった。たとえば、いまの季節では他に「紙屑にかかりしほこり草いきれ」があり、これなども実に巧みな句だと思う。じりじりと蒸し暑い夏の日の雰囲気がよく出ている。北野平八は宝塚市の人で、桂信子門。1986年に他界された。息子さんは詩を書いておられ、いつぞや第一詩集を送っていただいたが、人にも物にも優しい詩風を拝見して、血は争えないものだなと大いに納得したことであった。『北野平八句集』〔1987〕所収。(清水哲男)


July 1771998

 蜥蜴出て遊びゐるのみ牛の視野

                           藤田湘子

際に、牛の視野がどの程度のものなのかは知らない。大きな目玉を持っているので、たぶん人間よりも視野は広いと思われるが、どうであろうか。逆に闘牛のイメージからすると、闘牛士が体をかわすたびに牛は一瞬彼を見失う感じもあるので、案外と視野は狭いのかもしれない。どちらかはわからないけれど、この句は面白い。鈍重な牛に配するに、一見鈍重そうに見えるがすばしこい蜥蜴〔とかげ〕。もちろん、大きな牛と小さな蜥蜴という取り合わせもユーモラスだ。牛も蜥蜴もお互いに関心など抱くはずもないのだけれど、俳人である作者の視野にこうして収められてみると、俄然両者には面白い関係が生まれてきてしまう。動くものといえばちっぽけな蜥蜴しか見えない大きな牛の「孤独」が浮かび上がってくる。この取り合わせは、もとより作者自身の「孤独」に通じているのだ。作者にかぎらず、俳人は日常的にこのような視野から自然や事物を見ているのだろう。つまり、何の変哲もない自然や事物の一部を瞬時に切り取ってレイアウトしなおすことにより、新しい世界を作り上げる運動的な見方……。それが全てではないと思うが、俳句づくりに魅入られる大きな要因がここにあることだけは間違いなさそうだ。『途上』〔1955〕所収。(清水哲男)


July 1871998

 青森暑し昆虫展のお嬢さん

                           佐藤鬼房

国の夏は、ときに「猛暑」という言葉がぴったりの猛然たる暑さとなる。たしか日本の最高気温の記録は岩手で出ているはずだ。そんな日盛りのなか、青森を旅行中の作者は昆虫展の会場に入った。暑さに耐え切れず、たまたま開かれていた昆虫展を見つけて、涼みがてらの一休みのつもりだったのかもしれない。と、いきなり会場にいた一人の少女の姿が目につき、このような句が生まれたというわけだ。「昆虫」と「お嬢さん」。この取り合わせには、作者ならずとも一瞬虚をつかれる思いになるだろう。少なくとも私はこれまで、昆虫が好きだという女性にお目にかかったことがない。ちっぽけな蜘蛛一匹が出現しただけでも、失神しそうになる人さえいる。ましてや、何の因果で昆虫展をわざわざ見に出かける必要があるだろうか。偏見であればお許しいただきたいが、一般的にはこの見方でよいと思う。作者もそう思っていたので、あれっと虚をつかれたわけだ。昆虫の標本を見ながらも、時折視線は彼女に注がれたであろう。そしてだんだんと、好意がわいてきたはずでもある。このときにはもはや、外部の猛暑は完全に消え失せてしまっている。「お嬢さん」の威力である。『何處へ』〔1984〕所収。(清水哲男)


July 1971998

 昼寝猫袋の如く落ちており

                           上野 泰

わずも「にっこり」の句。猫の無防備な昼寝はまさにこのとおりであって、人間サマにとっては羨ましいかぎりである。あまりにも無防備なので、ときには人間サマに踏みつけられたりする不幸にも見舞われる。それにしても、そこらへんに落ちている袋みたいだとは、いかにもこの作者らしい描写だ。言われてみると「コロンブスの卵」なのであって、「なあるほど」と感心してしまう。無防備という点では、人間の赤ちゃんも同じようなものだろうけれど、どう見ても袋みたいではない。袋は猫にかぎるようだ〔笑〕。どういうわけか、作者には昼寝の句が多い。「魂の昼寝の身去る忍び足」。もちろんこれは人間である作者の昼寝なのだが、上掲の句とあわせて読むと、今度は人間の「魂」がなんだか猫みたいに思えてきて面白い。これから昼寝という方、あるいは昼寝覚めの方、自分の寝相は何に似ていると思われるでしょうか。『佐介』〔1950〕所収。(清水哲男)


July 2071998

 地図の上に子らと顔よせ夏休

                           上野巨水

あ夏休みだ、今年はどこへ行こうか。こんなふうに、夏休みと旅行とが結びつくようになったのは何時ごろからだったろう。「余暇の活用」などと言われはじめたのが三十数年ほど前。気運としてはそのころからあったのだろうが、実際にはここ四半世紀のことと思われる。戦前は知らないが、私の若いころには「夏は、どちらへ」という挨拶はなかった。旅があるとすれば、盆などで故郷に帰ることくらいだった。この句の発表年代は不明〔平井照敏編『新歳時記』所載〕だが、おそらくは四半世紀前くらいだろうと推定できる。つまり、こうした親子の情景が新鮮であった時代ということだ。当時は、この句を読んで羨ましくも微笑ましいと感じた読者が多数いたにちがいない。逆にトーンは抑えてあるが、作者の得意を思うべし。この句が昨日今日作られたものだったら、平凡すぎて話にもならない。まことに「歌は世につれ」るものである。そんな理屈はともかく、夏休みがはじまった。この、はじまったと思うときがいちばん楽しい。願わくば、ずうっと楽しい夏休みでありますように。(清水哲男)


July 2171998

 扇風機蔵書を吹けり司書居らず

                           森田 峠

った一人の司書がとりしきっている小さな図書館。作者は高校教師だったから、学校の図書室だろう。1981〔昭和56〕年の作品ということからしても、冷房装置のない図書館は他には考えられない。そんな暑い図書室に来る生徒はめったにいないので、いつも閑散としている。作者が本を借りようとしてカウンターに行ったところ、司書用の扇風機がまわっているだけで、姿が見えない。部屋にいるのが教師なので、彼は安心して少しの間席を外したのだろう。カウンターの背後には辞典や画集などの貴重本が並べられており、涼しげに扇風機からの風に吹かれている。窓の外からは、練習に励む野球部員たちの声…。学校の夏の図書室の雰囲気は、だいたいこういったものである。昔の公共図書館も同様で、この季節はあまり人気がなかった。ところが、最近の町の図書館は様相が一変してしまい、大にぎわいだ。ほどよく冷房はきいているし、おまけに静かだから、大いに混み合いだした。なかには昼寝の場所と心得ているとしか思えない人もいて、なかなかテーブルがあかないのには困る。はやく完璧な電子図書館ができてくれないものかと、勤勉な〔笑〕私が切に願うのがこの時期である。『逆瀬川』〔1986〕所収。(清水哲男)


July 2271998

 あきなひ憂し日覆は頭すれすれに

                           ねじめ正也

者はこのころ、高円寺〔東京・杉並〕商店街で乾物商を営んでいた。商品に日があたらないように、夏場はぐうんと店の日覆いを下げるのである。背の高い通行人だと、少しかがむようにしなければ店内の様子が見えないほどだ。なんとも、うっとおしい感じになる。それはしかし、店内で商売をしている人にとっても同じことで〔いや、それ以上だろう〕、夏は物が売れないこともあり、うっとおしさは増すばかりだ。頭すれすれの日覆いにさえ、つい八つ当たりしたくもなろうというもの。そこで、何の用事もないのに日覆いをくぐって表へ出てみると「炎天の子供ばかりの路次に出づ」ということになるわけで、憂鬱は募るばかりである。この句は『蠅取リボン』〔1991〕から引用したが、息子さんの作家・ねじめ正一君とのご縁で、私が拙い文章を添えさせてもらった句集だ。私はこの句ができたころ〔だろう〕に高円寺北のアパートに住んでいて、ねじめ乾物店では一度買い物をした覚えがあるが、残念ながら直接作者から買ったのかどうかは定かではない。(清水哲男)


July 2371998

 ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる

                           富沢赤黄男

をゆく船に、蟹が手をあげて「おーい、おーい」と呼びかけている。白い大きな船と赤い小さな蟹。絵本にでも出てくれば、微笑ましく見えるシーンだ。が、俳人は「呼びかけたって、どうにもなりはしないのに」と、いたましげなまなざしで蟹を見つめている。行為の空しさを叙情しているわけだ。1935〔昭和10〕年の作品で、歴史を振り返ると、翌年には二・二六事件、翌々年には日華事変が勃発している。深読みかもしれないけれど、この句は来るべき戦争を予言しているようにも読めないことはない。このとき白い船は平和の象徴であり、赤い蟹は天皇の赤子〔せきし〕としての民衆である。行為の空しさを叙情することは、戦争遂行者にとっては危険きわまりない「思想」と写る。かつて、俳人や川柳作家が次々に検挙された時代があったなどとは容易に信じられない現代であるが、逆に言えば、叙情や風刺もまたそれほどの力を持っていたということになる。しからば、この句をこのようにして現代という光にあてて見るとき、叙情の力はどの程度のものだろうか。少なくとも私には、いまだに衰えを知らぬパワーが感じられる。なお、作者は新興無季俳句運動の旗手であったから、当然無季として詠んでいるのだが、当歳時記では便宜上、夏の季語である「蟹」から検索できるようにしておく。『昭和俳句選集』〔1977〕所収。(清水哲男)


July 2471998

 三日月の匂ひ胡瓜の一二寸

                           佐藤惣之助

い。パッと見せられたら、誰もがウムと唸る句だろう。ほのかに匂うような三日月を指して、一二寸の胡瓜のそれに似ていると言うのである。作者の才気煥発ぶりを感じさせられる。だが、この句には下敷きがある。一枚目のそれは其角の「梅寒く愛宕の星の匂かな」であり、二枚目のそれは芭蕉の「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」である。下敷きがあっても構いはしないが、下敷きを知っている人には、どうしても原句にあるのびやかさが気になって、この句の空間が狭く思われてしまう。止むを得ないところだ。ところで、佐藤惣之助はご存じ「赤城の子守歌」〔東海林太郎・歌〕など多くのヒット歌謡曲を書いた人で、いわば「殺し文句の達人」であった〔自由詩の詩人としても実績がある〕。この句も、実に小気見よく決まっている。いつの時代にも、またどんなジャンルにあっても、クリエイターが大衆に受け入れられるための条件のひとつは「換骨奪胎」の巧みさにあるようで、かつて一度も登場したこともないような新しい表現物は確実に置いてきぼりにされてしまうのが常である。ただし、問題はそうしたことを苦もなくやってのけられる才能の側にもないわけではなくて、詩人としての佐藤惣之助が忘れられようとしているのは、たぶん、そのあまりにも巧みな「換骨奪胎」による「殺し文句」のせいであろうかと思われる。溢れ出る才能にも、悲しみはある。(清水哲男)


July 2571998

 暗く暑く大群衆と花火待つ

                           西東三鬼

火を待つのも句のように大変だが、打ち上げるほうは商売とはいえ、もっと大変だ。父が花火師だったので、よく知っている。両国の花火大会で言うと、打ち上げ船への花火の積み込みは正午までに終わらなければならない。それから仕掛けなどの準備を行う。炎天下、防火服を着ての作業だ。準備が完了しても、何人かは日覆いもない船に残る。19時10分から打ち上げ開始。その様子を、父は次のように書きとめている。「数百の小玉がいっせいに上がり、パリパリパリッといっせいに開花する。みんなは船板にはうように身をかがめ、じっと我慢する。そのうち火の粉や燃えかすがザーバラバラバラッと、われわれや防火シートの上に襲いかかる。燃えながらシートを直撃するのもある。これは恐ろしい。もし突き抜ければ、下にあるたくさんの連発が一度に発火し、大火災をおこすことになるからである。はじかれたようにみんなは起き上がり、バケツや火たたきでけんめいに火とたたかう。全部退治すると息つく暇もなく、次の仕掛の準備にかかる。火薬のついたものが露出するので、この間絶対に花火の演出はしないことになっている。連発の終わったものを片づけ、次の台を据えつけ速火線で連絡する。こうしたことを十回くらい繰り返す。暗がりで懐中電燈を照らしての仕事であるから、なかなか骨の折れることであった」〔清水武夫『花火の話』河出書房新社〕。(清水哲男)


July 2671998

 無人島の天子とならば涼しかろ

                           夏目漱石

まり詮索しないほうがいいだろう。苦笑か微笑か、それが浮かんだところで終わりである。作者自身も、この句を書き送った井上藤太郎〔熊本の俳人、「微笑」と号した〕に、「近頃俳句などやりたる事もなく候間頗るマズキものばかりに候」と言っている。明治36〔1903〕年の句だから、ロンドンから戻ってきた年だ。同じ夏に「能もなき教師とならんあら涼し」もあるから、これからの東京帝大での教師生活がイヤでたまらなかったものと思われる。だいたい、いいトシをした男が「無人島」などと言い出すときには、ロマンチシズムのかけらもないのであって、たいていが現実拒否の感情が高ぶった結果の物言いなのである。その意味からすると、相当に不機嫌な句だ。「涼し」どころか、暑苦しい。詮索無用といいながら、思わずも詮索をはじめてしまった〔苦笑〕が、これは私の別の意味での不機嫌による。さきほど、たまたま開いた花田英三の新しい詩集『島』〔夢人館・1998〕は、こんなフレーズではじまっていた。「生きていくのに大事なことは/嫌なら他所へ行くことだ/俺が行きたいのは/架空の島」〔「旅でなく」〕。(清水哲男)


July 2771998

 向日葵や起きて妻すぐ母の声

                           森 澄雄

休みの朝は、普段とは違う独特の雰囲気がある。学校のない子供らはいつまでも寝ているし、親の日常ペースも狂いがちだ。この句の妻も、いつもよりは遅く起きたのだろう。雨戸を開け放つと、庭の向日葵にはすでに陽光がさんさんと降り注いでいる。もう、こんな時間……。妻はいきなり「母の声」になって、作者と子供らを起こしにかかる。そんな情景だ。半身を起こした作者に向日葵はいかにもまぶしく見え、それが「母の声」と見事にマッチしているなと感じている。そしてこの句の背景には、ささやかにもせよ、一家の生活の安定が感じられる。みんな元気だし、とりあえず思い煩うこともない。作者のこの安心感が、読者をも安心させるのである。この句が載っている『花眼』〔1969〕には敗戦後10年くらいからの句作が収録されており、ということは、人々の生活がようやく落ち着きを取り戻そうとしていた時期にあたるわけで、その意味からして「向日葵」の扱いも利いていると思う。「向日葵」だなんて暑苦しいばかりだという時代が、ついこの間まであったのだから。(清水哲男)


July 2871998

 英雄の息女の三人白夏服

                           中村草田男

戦前年の句。三人は「みたり」と読む。当時「英雄」といえば、戦死した人と解するのが普通であった。最近戦地で父親を失った娘たちが、三人ともいつもの夏と同じように、きちんと白い夏服を着用している。悲しみを払いのけるようなその凛とした姿に、作者はうたれている。これぞ「大和撫子」の鏡だと、大いに感じ入っている。ところで、こういう句は、実にコメントしにくい。なぜなら、この句は俳句の定型という以上に「時代の定型」を背負っているからだ。英雄の定義にしてからが「時代の定型」にしたがっているのだし、作者の心持ちも「時代の定型」につつまれており、もう一歩細かい心情には踏み込めないところがある。したがって、いまとなってのこの句は、一種の風俗詩としてしか読めないと言ったほうがすっきりしそうだ。作者はべつに時流におもねっているわけではないのだけれど、戦争に対して何も言っていないことも明白で、そこが限界ということになるのだろう。では、いまさら、なぜ、このような句を引いたのか。読み返しているうちに、上述の理由とあわせて、なんだかとても切なくなってきたからである。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


July 2971998

 薮から棒に土用鰻丼はこばれて

                           横溝養三

日は、この夏の土用丑の日。鰻たちの厄日。毎年日付が変わるので、忘れていることが多い。作者も、そうだったのだろう。だから「薮から棒に」なのである。夕飯時のちょっとした出来事、いや事件だ。こういう事件は、しかし嬉しいものである。作者は「おいおい、どうしたんだ」と言いかけて、はたと今日が丑の日だったことに気がついたというところか。この句は、何種類もの歳時記に登場している。作者の嬉しさが素直に伝わってくるので、人気があるのだろう。ところで、真夏に鰻を食べる効用については、うんざりするほどの情報があるから、ここには書かない。ただ、『万葉集』の大伴家持の歌に「石麻呂(いはまろ)に吾れ物申す夏痩によしと云ふものぞ鰻とり召せ」とあり、これは覚えておいて損はないと思う。もしかすると、今夜の食事時に使えるかもしれない。草間時彦で、もう一句。「土用鰻息子を呼んで食はせけり」。息子にとってこの親心はむろん嬉しいだろうが、本当は、息子の健啖ぶりを傍で眺める親のほうがもっと嬉しいのである。(清水哲男)


July 3071998

 ラムネ抜けば志ん生の出の下座が鳴る

                           今福心太

キですねえ。いいですねえ。夏の寄席には、ちょっと安っぽくて野暮な感じのラムネが似合います。しかもこれから、高座は天下の志ん生ですよ。噺を聞く前から楽しい気分になっている作者の気持ちが、よく伝わってきます。ラムネはサイダーとほとんど同じ成分だそうですが、なんといっても嬉しいのは瓶の形状ですね。どう言ったらよいのか。あの「玉入りガラス瓶」は、そんなに美味とは言えない中身を凌駕して余りある魅力を保持してきました。パッケージ人気で売れた元祖みたいな商品でしょう。数年前にラムネ人気が息を吹き返したこともありましたが、プラスチック製の瓶では、やはり駄目だったようですね。機能的には同一でも、手にしたときの重さだとかガラス玉とガラス瓶の触れ合う音が、まったく違います。こういう句を読むと、昔はよかったんだなと、つくづく思います。寄席には、冷房なんぞというシャレた仕掛けもなかった時代に、しかし、客の楽しみは現代よりももっともっとふんだんにあったというわけですから。「庶民的」という言葉が、文字通りに生きていた時代の句です。(清水哲男)


July 3171998

 ががんぼを厨に残しフランスへ

                           塩谷康子

外旅行。長期間家を空けるとなると、出発直前にあれこれと家の中を点検する。とくに厨房は火の元でもあるし、ガスの元栓などは何度でも確かめたくなる。と、そこに一匹のががんぼがいた。窓を開けて出してやろうとしたのだが、なかなか出てくれない。いま出てくれないと、作者が戻ってくるまで窓は開かれないのだから、確実に死んでしまうだろう。それを思うと、何とかしてやりたいのだが、どうにもならぬ。さあ、困ったことになった。時計を見ると、そろそろ出かけなくてはならない時間だ。数分間逡巡したあげくに、あきらめてそのままにしておくことにした。タイム・リミットだからね、仕方がないよねと、自分を納得させて、作者はフランスへ旅立ったというわけだ。「ががんぼ」と「フランス」の取り合わせもなんとなく可笑しいが、時間ぎりぎりまで「ががんぼ」にこだわった作者の心根も興味深い。遠い国への稀な旅は、このようにどこかで「命」に心を向かわせるところがある。まずは自分の「命」を思うからであろうが、普段なら気にも止めない「命」にも、その心は及んでいく。『素足』(1997)所収。(清水哲男)




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