July 051998
雨蛙めんどうくさき余生かな
永田耕衣
耕衣、七十代後半の句。雨蛙の体の色は葉の上など緑のなかでは緑色をしているが、木の幹や地上に下りると途端に茶色に変色する。保護色の好例として、小学校の教室でしばしば引き合いに出されてきた。人間には保護色はないのだけれど、考えてみれば、状況に応じて態度を変えるなどしているわけで、心理的精神的な保護色はあると言わなければなるまい。ただし雨蛙が自然に体色を変えられるのとは違って、私たちの場合は、意志的にそれをする必要がある。そこが実になんとも「めんどうくさい」と感じることになる年代が「余生」だと、作者は述べている。きょとんとした雨蛙と、何もかもを面倒くさく感じはじめた俳人との取り合わせは、ペーソスの味を越えた不思議な明るい世界に通じているとも読める。「余生」を自覚するのは人それぞれのきっかけからだろうが、作者の場合はそんじょそこらの雨蛙に触発されての自覚であった。私などは「いつ死んでもおかしくない年齢」の自覚はあっても、どこかで「余生」とは認めたくない小賢しい気持ちのままに生きている。いずれ、作者のようにそんじょそこらの「何か」に、否応もなく「余生」を告知されるのであろう……。『殺祖』(1981)所収。(清水哲男)
May 292002
集金は残り一軒雨蛙
納谷一光
季語は「雨蛙(あまがえる)」で夏。あたりに雨の気配が漂ってくると、よく通る声で鳴く習性を持つことからの命名。外で仕事をする人にとっては、頼もしくも天才的な雨の予報官だ。彼らが鳴きはじめると、濡らしてはいけない道具類をまずは緊急退避させたりする。さて、掲句の作者は傘を持っていないので、雨蛙が鳴きはじめたとなると、気が気ではない。空を見上げれば、さきほどまでの青空はすっかり姿を消してしまい、まもなくザァーッと降ってきそうだ。さあ、どうしたものか。雨蛙が鳴くくらいだから、繁華な都会の道ではないだろう。自分自身を緊急退避させなければと思うと同時に、しかし仕事は「残り一軒」でめでたく終わるのだ。どうしようか。もう一度考えて、「ええい、ままよ」と「集金」を優先させることにした。急に足早に歩きはじめた作者の周囲では、ますます雨蛙の鳴き声が繁くなってくる……。そんな印象を受けた。これが「残り三軒」ならば、誰が悪いわけじゃなし、あきらめて引き返すところだろうに、あと「一軒」だからかなりの無理をしてしまう。仕事には、そういった側面がありますね。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
June 262002
浦島太郎目覚めの床にあまがえる
夏石番矢
季語は「あまがえる(雨蛙)」で夏。玉手箱を開けてしまった後の「浦島太郎」落魄の景と読んだ。竜宮城での遊びに飽きて、故郷に戻ってみれば我が家もなければ知る人もいない。三年ほどの滞在のつもりが、実は三百年も(七百年説も)経っていたというお話。やっとの思いで一夜の宿を得て、目覚めると同じ「床」に「あまがえる」がきょとんとした顔で坐っていた。人も風景もみんな変わってしまったなかで、この雨蛙だけは昔と同じ姿かたちをしている。迎えてくれたのは、お前だけか。何故こんなところに雨蛙がいるのかなどの疑問よりも先に、太郎の心は懐かしさでいっぱいになっている。いるはずもない床に雨蛙を配したことで、太郎の孤独がいっそう深まっている。浦島伝説の解釈には諸説あるが、私は地域共同体を外れた者に対するいましめのための話だと思う。伝説の原型は古く『日本書紀』にあって、ある男が海上で出会った絶世の美女とどこか遠い国に行ってしまい、ついに戻ってこなかったという。どうやら、異民族との結婚話らしい。当時の人々には、おそらくまだ共同体防衛の意識などなかったろうから、憧憬譚めいたニュアンスがある。ところが今に伝わる話は、武家が天下を取った鎌倉室町期の脚色らしく、異民族や他所者との結婚や交流は共同体破壊につながるから、これを暗示的にいましめているというわけだ。すなわち、浦島太郎は共同体破壊者であり、そんなけしからん男が最後にはどんな目にあうかという「みせしめ」なのであった。『巨石巨木学』(1995)所収。(清水哲男) [ありがとうございます]複数の読者の方から、掲句の「目覚めの床」は、木曽山中の「寝覚めノ床」のことではないかというご指摘をいただきました。おそらく、そうでしょうね。と言うか、意識した句だと思います。ただ、あえて作者が「目覚めの床」と言い換えたのは、踏まえていることを読者に伝えつつ、そうした景勝の地ではなくて別の場所(私の解釈では、ごくありふれた何でもない室内)に、浦島太郎を「普通の人」として置きたかったのだと思います。
May 212013
万緑のなかを大樹の老いゆけり
佐藤たけを
散歩コースにある鬼子母神の大銀杏は、黄落はもちろん見事だが、この時期の姿もことのほか美しい。幹はいかにも老樹といった風格ではあるが、その梢から無数に芽吹く若葉青葉は若木となんら変わりなく瑞々しく光り輝く。万緑には圧倒されるパワーを感じるが、掲句によって、その雄々しく緑を濃くする新樹のなかに老木も存在することにあらためて気づかされる。屋久杉やセコイヤなどの木の寿命は数千年に及ぶというから、100歳で長寿という人間から見ればほとんど不老不死とも思える長さだ。鼠も象も一生の心拍数は同じといわれるが、もし大樹に鼓動があるとしたら、どれほどゆっくりしたものになるのだろうか。今度幹に手のひらを当てるときには、きっとゆっくりと打つ心音に思いを馳せることだろう。青葉若葉に彩られ、大樹はまたひとつ、みしりと樹齢を重ねてゆく。〈一斉に水の地球の雨蛙〉〈うつくしき声の名のりや夏座敷〉『鉱山神』(2013)所収。(土肥あき子)
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