東京は新暦発祥の地。だから明日は七夕。最近の子供は牽牛織女に無関心だという。




1998ソスN7ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0671998

 梅雨明けの鶏を追ふ歩幅かな

                           今井 聖

し飼いの鶏。といっても、夜は鶏舎に収容する。外敵から守るためと、卵を所定の場所で産ませるためだ。夕暮れ近くになって、あちこちにいる鶏たちを鶏舎に追い込むことを「鶏(とり)を追ふ」という。スケールは違うが、牛を集めてまわるカウボーイの仕事と同じだ。忙しい農家で「鶏を追ふ」のは、たいていが子供の仕事であった。小学生の私も毎夕追っていたが、なかには言うことを聞かないヤツもいて、暗くなっても探しまわったこともある。なにせ卵は農家の現金収入では大きな位置を占めていたので、一羽くらいいなくなってもいいやとはならないのである。梅雨が明ければ、ぬかるみに足を取られることもなく、この仕事は快適になる。地面は「梅雨明けのただちに蟻の影の道」(井沢正江)となるからだ。作者はその快適さを「鶏を追ふ」人の歩幅に象徴させている。一読して、私には納得できた句だ。作者は十代からセンスのよい俳句を書き、現在はシナリオ・ライターでもあって、映画『エイジアンブルー』(残念ながら、私は未見)の脚本などで知られている。「俳句文芸」(1998年7月号)所載。(清水哲男)


July 0571998

 雨蛙めんどうくさき余生かな

                           永田耕衣

衣、七十代後半の句。雨蛙の体の色は葉の上など緑のなかでは緑色をしているが、木の幹や地上に下りると途端に茶色に変色する。保護色の好例として、小学校の教室でしばしば引き合いに出されてきた。人間には保護色はないのだけれど、考えてみれば、状況に応じて態度を変えるなどしているわけで、心理的精神的な保護色はあると言わなければなるまい。ただし雨蛙が自然に体色を変えられるのとは違って、私たちの場合は、意志的にそれをする必要がある。そこが実になんとも「めんどうくさい」と感じることになる年代が「余生」だと、作者は述べている。きょとんとした雨蛙と、何もかもを面倒くさく感じはじめた俳人との取り合わせは、ペーソスの味を越えた不思議な明るい世界に通じているとも読める。「余生」を自覚するのは人それぞれのきっかけからだろうが、作者の場合はそんじょそこらの雨蛙に触発されての自覚であった。私などは「いつ死んでもおかしくない年齢」の自覚はあっても、どこかで「余生」とは認めたくない小賢しい気持ちのままに生きている。いずれ、作者のようにそんじょそこらの「何か」に、否応もなく「余生」を告知されるのであろう……。『殺祖』(1981)所収。(清水哲男)


July 0471998

 河鹿鳴く夕宇治橋に水匂ふ

                           皆吉爽雨

都は宇治川畔の美しい夏の夕暮れの風情。絵葉書にしたいような旅人の歌だ。作者は中洲である塔の島あたりから、宇治橋を眺めているのだろうか。高い宇治橋の上からでは、水の流れる音しか聞こえないはずだからだ。そして何をかくそう、私がこの宇治橋の畔にひょろりと登場(笑)したのは、今から四十年前のことであった。当時の京都大学の新入生は、みな宇治分校なる「チョー田舎のボロ校舎」に集められたからである。で、最近この句に出会って考えるに、はたして宇治川辺りで河鹿が鳴いていたかということだが、まったくもって記憶がない。橋のたもとに出ていた屋台で、毎晩キャベツだけを肴に(なにしろキャベツは無料だったから)、共に飲んだくれていた佃学が生きていたら確かめようもあるのだけれど、それも適わない。大いに河鹿は鳴いていたのかもしれないが、旅人と違って、住みついた人間の耳や目は環境に慣れ過ぎてしまい鈍感になるので、こういうことになってしまう。一昨年の夏、多田道太郎さんのお宅をベースに、余白句会の仲間で宇治を訪れた。もちろん宇治橋も見に行った(!)が、もはやこの句のような美しさとは完璧に無縁であった。(清水哲男)




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