吉祥寺駅ロンロン弘栄堂書店が詩書コーナーを半分に縮小、俳句・短歌並みとした。




1998N78句(前日までの二句を含む)

July 0871998

 でで虫や父の記憶はみな貧し

                           安住 敦

生、小さな殻に閉じこもって生きる「でで虫(蝸牛)」。雨露をなめ、若葉を食べる。それが父親の貧苦の生涯を連想させるのである。作者に語ってもらおう。「中学の卒業式に、父は古いモーニングを着て参列した。わたくしは総代として答辞を読んだ。式が終わると親子は一緒に校門を出、通りがかりの蕎麦屋へ上って天ぷら蕎麦を食べた。お前、大学へいきたかったんだろうね、と父は思い出したように言った。でもいいんですよ、とわたくしも素直に答えた。済まないね、といって父は眼をしばたたいた。わたくしの思い出のうち最もさびしい父の姿だった」。大正十五年(1926)三月の話。したがって、卒業したのはもちろん旧制中学(東京・立教中学)だ。作者は十八歳。父親に対して「いやいいんですよ」というていねいな言葉づかいが、当時の父子の距離感を表している。私も、両親に対してはほとんどこのような言葉づかいで通してきた。親が率先して友だちのように振る舞うようになったのは、ほんの最近のことだ。教師においても、また然り。どちらがよいとは言えないけれど、親子の距離は自立への道の遠近を暗示しているようには思える。『暦日抄』(1965)所収。(清水哲男)


July 0771998

 鳶鳴きし炎天の気の一とところ

                           中村草田男

に最も多産だった草田男らしい晴朗な一句。炎天にげんなりするのではなく、むしろ烈日を快としている。慶応義塾の応援歌ではないが、まさに「烈日の意気高らかに」ではないか。鳶の鳴き声、その「一とところ」に「気」を感じたということは、すなわち作者一人(いちにん)の気力充実ぶりを表現しているのである。体調も、すこぶるよろしい。不調だったら、とてもこうは詠む気になれないだろう。生きていることへの喜びでいっぱいだ。このとき、作者の人生は全面的に肯定されている。草田男は常々「二百年は生きるつもりだ」と語っていたというが、自然へのこうした溶け込みようを見せられると、この言説にも素直に頷けるのである。同時期に発表された「炎天や鏡の如く土に影」にしても、微塵の自虐性もない。とりわけて近代の文芸においては「自虐」の分量が芸術的な価値につながるようなところがあり、それはまた歴史的な必然ではあるのだけれど、ときにこのような文芸的発想も見直しておく必要がある。さらに一句。「妻戀し炎天の岩石もて撃ち」。いずれも、草田男壮年三十八歳の作品である。『火の鳥』(1939)所収。(清水哲男)


July 0671998

 梅雨明けの鶏を追ふ歩幅かな

                           今井 聖

し飼いの鶏。といっても、夜は鶏舎に収容する。外敵から守るためと、卵を所定の場所で産ませるためだ。夕暮れ近くになって、あちこちにいる鶏たちを鶏舎に追い込むことを「鶏(とり)を追ふ」という。スケールは違うが、牛を集めてまわるカウボーイの仕事と同じだ。忙しい農家で「鶏を追ふ」のは、たいていが子供の仕事であった。小学生の私も毎夕追っていたが、なかには言うことを聞かないヤツもいて、暗くなっても探しまわったこともある。なにせ卵は農家の現金収入では大きな位置を占めていたので、一羽くらいいなくなってもいいやとはならないのである。梅雨が明ければ、ぬかるみに足を取られることもなく、この仕事は快適になる。地面は「梅雨明けのただちに蟻の影の道」(井沢正江)となるからだ。作者はその快適さを「鶏を追ふ」人の歩幅に象徴させている。一読して、私には納得できた句だ。作者は十代からセンスのよい俳句を書き、現在はシナリオ・ライターでもあって、映画『エイジアンブルー』(残念ながら、私は未見)の脚本などで知られている。「俳句文芸」(1998年7月号)所載。(清水哲男)




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