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1998ソスN7ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1771998

 蜥蜴出て遊びゐるのみ牛の視野

                           藤田湘子

際に、牛の視野がどの程度のものなのかは知らない。大きな目玉を持っているので、たぶん人間よりも視野は広いと思われるが、どうであろうか。逆に闘牛のイメージからすると、闘牛士が体をかわすたびに牛は一瞬彼を見失う感じもあるので、案外と視野は狭いのかもしれない。どちらかはわからないけれど、この句は面白い。鈍重な牛に配するに、一見鈍重そうに見えるがすばしこい蜥蜴〔とかげ〕。もちろん、大きな牛と小さな蜥蜴という取り合わせもユーモラスだ。牛も蜥蜴もお互いに関心など抱くはずもないのだけれど、俳人である作者の視野にこうして収められてみると、俄然両者には面白い関係が生まれてきてしまう。動くものといえばちっぽけな蜥蜴しか見えない大きな牛の「孤独」が浮かび上がってくる。この取り合わせは、もとより作者自身の「孤独」に通じているのだ。作者にかぎらず、俳人は日常的にこのような視野から自然や事物を見ているのだろう。つまり、何の変哲もない自然や事物の一部を瞬時に切り取ってレイアウトしなおすことにより、新しい世界を作り上げる運動的な見方……。それが全てではないと思うが、俳句づくりに魅入られる大きな要因がここにあることだけは間違いなさそうだ。『途上』〔1955〕所収。(清水哲男)


July 1671998

 祭まへバス停かげに鉋屑

                           北野平八

スを待つ間、ふと気がつくとあちこちに鉋屑〔かんなくず〕が散らばっている。どこからか、風に吹かれてきたものだろう。一瞬怪訝に思ったが、そういえば町内の祭が近い。たぶん、その準備のために何かをこしらえたときの鉋屑だろう。そう納得して作者は、もう一度鉋屑を眺めるのである。べつに祭を楽しみにしているわけではなく、もうそんな季節になったのかという淡い感慨が浮かんでくる。作者は私たちが日頃つい見落としてしまうような、いわば無用なもの小さなものに着目する名人だった。たとえば、いまの季節では他に「紙屑にかかりしほこり草いきれ」があり、これなども実に巧みな句だと思う。じりじりと蒸し暑い夏の日の雰囲気がよく出ている。北野平八は宝塚市の人で、桂信子門。1986年に他界された。息子さんは詩を書いておられ、いつぞや第一詩集を送っていただいたが、人にも物にも優しい詩風を拝見して、血は争えないものだなと大いに納得したことであった。『北野平八句集』〔1987〕所収。(清水哲男)


July 1571998

 扇子低く使ひぬ夫に女秘書

                           藤田直子

かの用事で会社の夫を訪ねたのだろう。重役室か部長席か、秘書がいるのだから、夫の地位は相当に高いと知れる。そして、その女秘書は作者よりもだいぶ若いし美人でもある。見るともなく見ていると、仕事ぶりもてきぱきしている。で、使っている扇子の位置が自然に普段よりも低くなったというのだが、これはまた実に見事な心理描写だ。「扇子低く使ひぬ」とは、何のためなのか。女秘書に対して、それからその場にいる夫に対しても、自分の存在を少しでも大きく強く認識させようとしたためである。そんなことくらいで存在を大きく強くアピールできるわけもないのだが、そこはそれ、人間心理の微妙なところではあるまいか。共に働く女秘書と夫に対する軽い嫉妬の心が、思わずも扇子を低く使う仕草に表われていたというわけだ。しかも、その心理と仕草を覚えていてこのように書きとめた作者の腕前は、たいしたものだと思う。凡手は、ここを見逃す。見逃して、蝶よ花よとあたりを見回す。あえて見回さなくても、俳句の素材はみずからの心理や行為のうちにいくらでもあるし、発見できるというサンプルみたいな作品だ。うわぁ、説教臭くなっちゃった。『極楽鳥花』〔1997〕所収。(清水哲男)




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