「海の日」か。「われは海の子」という名曲もあったっけ。私は「山の子」である。




1998ソスN7ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2071998

 地図の上に子らと顔よせ夏休

                           上野巨水

あ夏休みだ、今年はどこへ行こうか。こんなふうに、夏休みと旅行とが結びつくようになったのは何時ごろからだったろう。「余暇の活用」などと言われはじめたのが三十数年ほど前。気運としてはそのころからあったのだろうが、実際にはここ四半世紀のことと思われる。戦前は知らないが、私の若いころには「夏は、どちらへ」という挨拶はなかった。旅があるとすれば、盆などで故郷に帰ることくらいだった。この句の発表年代は不明〔平井照敏編『新歳時記』所載〕だが、おそらくは四半世紀前くらいだろうと推定できる。つまり、こうした親子の情景が新鮮であった時代ということだ。当時は、この句を読んで羨ましくも微笑ましいと感じた読者が多数いたにちがいない。逆にトーンは抑えてあるが、作者の得意を思うべし。この句が昨日今日作られたものだったら、平凡すぎて話にもならない。まことに「歌は世につれ」るものである。そんな理屈はともかく、夏休みがはじまった。この、はじまったと思うときがいちばん楽しい。願わくば、ずうっと楽しい夏休みでありますように。(清水哲男)


July 1971998

 昼寝猫袋の如く落ちており

                           上野 泰

わずも「にっこり」の句。猫の無防備な昼寝はまさにこのとおりであって、人間サマにとっては羨ましいかぎりである。あまりにも無防備なので、ときには人間サマに踏みつけられたりする不幸にも見舞われる。それにしても、そこらへんに落ちている袋みたいだとは、いかにもこの作者らしい描写だ。言われてみると「コロンブスの卵」なのであって、「なあるほど」と感心してしまう。無防備という点では、人間の赤ちゃんも同じようなものだろうけれど、どう見ても袋みたいではない。袋は猫にかぎるようだ〔笑〕。どういうわけか、作者には昼寝の句が多い。「魂の昼寝の身去る忍び足」。もちろんこれは人間である作者の昼寝なのだが、上掲の句とあわせて読むと、今度は人間の「魂」がなんだか猫みたいに思えてきて面白い。これから昼寝という方、あるいは昼寝覚めの方、自分の寝相は何に似ていると思われるでしょうか。『佐介』〔1950〕所収。(清水哲男)


July 1871998

 青森暑し昆虫展のお嬢さん

                           佐藤鬼房

国の夏は、ときに「猛暑」という言葉がぴったりの猛然たる暑さとなる。たしか日本の最高気温の記録は岩手で出ているはずだ。そんな日盛りのなか、青森を旅行中の作者は昆虫展の会場に入った。暑さに耐え切れず、たまたま開かれていた昆虫展を見つけて、涼みがてらの一休みのつもりだったのかもしれない。と、いきなり会場にいた一人の少女の姿が目につき、このような句が生まれたというわけだ。「昆虫」と「お嬢さん」。この取り合わせには、作者ならずとも一瞬虚をつかれる思いになるだろう。少なくとも私はこれまで、昆虫が好きだという女性にお目にかかったことがない。ちっぽけな蜘蛛一匹が出現しただけでも、失神しそうになる人さえいる。ましてや、何の因果で昆虫展をわざわざ見に出かける必要があるだろうか。偏見であればお許しいただきたいが、一般的にはこの見方でよいと思う。作者もそう思っていたので、あれっと虚をつかれたわけだ。昆虫の標本を見ながらも、時折視線は彼女に注がれたであろう。そしてだんだんと、好意がわいてきたはずでもある。このときにはもはや、外部の猛暑は完全に消え失せてしまっている。「お嬢さん」の威力である。『何處へ』〔1984〕所収。(清水哲男)




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