警察は何をしているのか。そんなことよりも我々が何をしているのかが問題なのだ。




1998ソスN8ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1381998

 豪傑も茄子の御馬歟たままつり

                           幸田露伴

田露伴は、言うまでもなく『露団々』『五重塔』などで知られる明治の文豪だ。『評釈俳諧芭蕉七部集』という膨大な著作があり、俳句についても素人ではない。「歟」とは難しい漢字だが、ちゃんとワープロに入っている(いまどき誰が何のために使うのだろうか)。読み方は「か」ないしは「や」。文末につけて疑問・反語を示す(『現代漢語例解辞典』小学館)。ただし、ここでは一般的な切れ字として使われている。かつては荒馬にうちまたがって戦場を疾駆していた豪傑も、この世の人でなくなって、なんとも可愛らしい茄子のお馬さんに乗って帰ってきたよ…。と、いうところか。言われてみればコロンブスの卵だけれど、盂蘭盆会(魂祭)の句としては意表を突いている。稚気愛すべし。楽しい句だ。ところで、私が子供だったころまでは、茄子の馬などの供え物は、お盆が終わると小さな舟に乗せて川に流していた。いまではナマゴミとして捨てるのだろうが、なんだかとてもイタましい気がする。さすがの豪傑も、そんな光景には泣きそうになるのではあるまいか。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(清水哲男)


August 1281998

 滝が落つ金槌ならむまぎれ落つ

                           竹中 宏

を見ていたら、何か水とは違うものがまぎれて落ちたような気がした。あれは金槌だったのではないだろうか、きっとそうだったに違いない。と、そんな馬鹿な話はないのだけれど、私はこれを作者の実感だと思う。実際、滝のように水嵩の多い水流現象を見ていると、そこにあるのは水というよりも他の物質のように思えてくることがある。で、何かの拍子で水流が崩れたりしたときに、メタリックな印象が生まれたとしても、それはそんなに不思議なことでもないだろう。誰にでも、起きる幻視のひとつなのだ。でも、滝のなかに金槌を見るという目は、凡人のものではない。俳句に鍛えられていないと、こうは見えない。こういう表現には至らない。どこか空とぼけているようでいて、しかし、あくまでも客観性を手放さないまなざしは、一朝一夕にはつくれないものだということ。プロにはプロの目がある。プロにしか見えないものが、この世にはたくさんあるということ。竹中宏は、高校時代から草田男門の俊才であった。そして、師の草田男には、このような目はなかった。その意味では、作者はこの句(だけではないが…)あたりで、がっちりと自分自身の俳句をつかんだと言えそうである。「翔臨」(第32号・1998)所載。(清水哲男)


August 1181998

 きつねのかみそり一人前と思ふなよ

                           飯島晴子

初は正直に言ってよくわからなかったが、わからないなりにドキリとさせられた。小さいが鋭利な剃刀を手にしたキツネが、そいつをキラキラ光らせながら、人間の慢心を戒めていると読める。ヒヤリとさせられる。古老や親方に言われるよりも、ずっと怖い。刺しちがえて来そうな迫力がある。「きつねのかみそり」とは、実はこの季節の野の花の名で、夏水仙の仲間である。ヒガンバナ科。そんなに詳しくない植物図鑑にも載っているので、元来がポピュラーな花なのだろう。ただし、最近の歳時記にはない。写真を見ると、彼岸花を小さく寂しくしたような橙色の花だ。花びらが尖っているので、なるほど「狐の剃刀」という感じがする。命名の由来には、伝説か民話がありそうだ。それにしても「一人前と思ふなよ」とは、心の奥にまで刺し込まれるような言葉である。もちろん作者の自戒なのだが、句の力によって自戒を軽々と越えてしまい、明らかに他人にも及んでいると読まざるをえないところが凄い。自分を切ることで、他人をも同時に切るという方法。一度くらいは、こんな啖呵(たんか)を颯爽と切ってみたい。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます