August 171998
朝の舟鶏頭の朱を離れたり
大串 章
朝霧のなかで、舟が静かに滑るように岸を離れていく光景である。清潔感に満ちた句だ。霧などとはどこにも書いてないけれど、岸辺の様子が「鶏頭の朱」だけに絞られていることから、読者は霧を思い浮かべるのである。すなわち、たちこめる霧が他の草や木を隠してしまい、作者には「鶏頭の朱」だけが鮮やかに見えているのだと……。自然がひとりでに描いた「山水画」の趣き。日中はひどく暑苦しく見える鶏頭も、ここではむしろ、ひんやりとしている。鶏頭がこのように、ひんやりと詠まれた例は少ない。少ないなかで、たとえば角川春樹に「鶏頭に冷えのあつまる朝かな」がある。悪くはない。が、着眼は鋭いとしても、いささか頭でこしらえ過ぎているのではなかろうか。この場合は、どうしても大串章の句のほうが一枚も二枚も上手(うわて)だと思う。自然をそのつもりでよく観てきた人には、頭や技巧だけではなかなか太刀打ちできないということだろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)
July 172010
めつむれば炎の見ゆる滝浄土
角川春樹
木の向こうに見える炎のようなものを描きたい、とは徳岡神泉画伯の言葉だったか。その炎は明るく燃えているというよりむしろ仄暗くゆらめいて、目を閉じればなお強く迫ってくるのだろう。句の前後から察して、この滝は那智の滝。〈夜も蒼き天をつらぬく瀑布あり〉〈はればれと滝は暮れゆく音を持つ〉〈銀漢のまつしぐらなり補陀落寺〉など、一度はこの目で那智の滝を観たい、とあらためて強く思った。ことに、夜の滝。その音と匂いに包まれているうち、滝の水が天から落ちているのか、天に向かって駆け上っているのか、自分がどこにいるのか、どこへ行くのか・・・確かなものは何ひとつ無くなっていく気がする。信ずるものにとって観音浄土は、現世よりよほど確かなものなのだろう。『夢殿』(1988)所収。(今井肖子)
July 252013
ひまはりのこはいところを切り捨てる
宮本佳世乃
水彩画教室に通っていた頃、ベテランの一人がすっかり枯れて頭をがっくり垂れたひまわりばかり描いているのを不思議に思った。大きな花びらもちりじりに干からびて黒い種子がびっしりと詰まったその姿に興味を引かれて描き続けているのだという。この人にとってひまわりの美は太陽の下でカンと頭をふりあげている姿ではなく、種をびっしり抱えながら干からびてゆく姿だったのだろう。美しさを感じるポイントが人それぞれのように「こはいところ」も人によって変わるかもしれない。ひまわりのどこがこわいのか、どこを「切り捨てる」のか、いろいろ探っているうち、具体的な部分ではな「ひまはり」の存在自体が「こはい」ように思えてきた。堂々とした向日葵の原型に対峙した句が「向日葵や信長の首切り落とす」(角川春樹)の句だとしたら、「ひまはり」の「こはいところ」にあえて向かい、切り捨てるこの句からは健気さが感じられる。『鳥飛ぶ仕組み』(2012)所収。(三宅やよい)
December 222013
いつの間にうしろ暮れゐし冬至かな
角川春樹
冬至の日暮れです。「いつの間に」、日が暮れてしまったのだろうという驚きがあります。続く「うしろ」の使い方が巧妙です。暮らすということは、掃除でも、料理でも、前を向くこと、次の手順をこなすことです。生きているかぎり、好むと好まざるにかかわらず、私たちは、「前向き」に行動し、予定を気にしながら、先のことを考えて暮らしています。しかし、掲句は、「いつの間にうしろ」と書き出すことで、驚きながら、うしろを振り返る身振りを読み手に与えます。ふり返ると一日が終わり、一年が終わっていく。冬至の暮れは早く、東京では16時32分。一年のあれやこれやが思い起こされ、暮色に消え、長い夜を過ごします。「存在と時間」(1997)所収。(小笠原高志)
July 122015
旅びとに夕かげながし初蛍
角川春樹
旅に出て何日経つだろうか。今日も日が暮れてゆく。旅に出ると、だんだんおのが身がむき出しになってきて、背負ってきた過去の時間は、夕影に長く伸びている。しかし、夕闇が深くなり始めて、この夏初めて見る蛍は光を発光してうつろっている。私にはうつろって見えるけれど、実際は、まっすぐに求愛している。けれども、人がそうであるように、蛍の恋も迷いさまようのではないだろうか。「源氏名の微熱をもちし恋蛍」。拙者のことをやけに艶っぽく詠んでくれました。源氏名とは洒落てい ます。われわれと同様に、人間界の恋も、微熱をともなうらしいですね。医学的には、風邪の症状と恋している症状は同等なので、将来的には恋する注射も開発可能と聞いたことがあります。ならば、失恋の鎮痛薬も出来そうですが、閑話休題。「夕蛍真砂女の恋の行方かな」。消えるとわかっていても光ろうとする。できないからやろうとする。かなわないから、さらに発光する。しかし、現実には、「手に触れて屍臭(ししゅう)に似たる蛍かな」ということも。人は、蛍の光に恋情を見ますが、作者は、その生臭い実態を隠しません。掲句に戻ります。中七まで多用されているひらがなが流れつく先に、初蛍が光っています。旅人と夕影と初蛍の光の情景から、音楽が生まれてもおかしくない気がします。引用句も含めて『存在と時間』(1997)所収。(小笠原高志)
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