真綿で首を締められる。テロは真綿を一挙に爆砕しようとする。悲しい現実の力学だ。




1998ソスN8ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1881998

 はだかにて書く一行の黒くなる

                           小川双々子

だかで物を書く。ハタから見ればいささか滑稽な姿かもしれないが、珍しいことではない。私にも、ずいぶんと経験がある。汗がしたたるから、書いた文字はにじんで黒くなる。現象的には、それだけのことを書いた句だ。でも、それだけのことを書いた句が、なぜ読者の心にひっかかるのだろう。私の考えでは、はだかが人間の原初の姿であるのに対して、文字は原初から遠く離れた着衣の文化だからだと思う。すなわち、着衣を前提にして、文字による表現は幅と深みを獲得してきた。はだかで暮らせる人には、複雑な文字表現など必要はないのである。はだかで原稿などを書いた体験からすると、自分で自分が笑えてくるような感じがあって、実に不思議な精神状態になる。そしてその次には、はだかでいる自分が、まぎれもなくいつかは消滅する生物であると自覚され、汗ににじんだ黒い文字列がひどく虚しく見えてきてしまう。あえて一言で、この心境を述べるならば「黒い孤独」とでも言うしかないようだ。これを気障な台詞と感じる人は、幸福な人である。人間の着衣文化を、当たり前だと信じて疑わない人である。皮肉で言うのではない、念のため。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


August 1781998

 朝の舟鶏頭の朱を離れたり

                           大串 章

霧のなかで、舟が静かに滑るように岸を離れていく光景である。清潔感に満ちた句だ。霧などとはどこにも書いてないけれど、岸辺の様子が「鶏頭の朱」だけに絞られていることから、読者は霧を思い浮かべるのである。すなわち、たちこめる霧が他の草や木を隠してしまい、作者には「鶏頭の朱」だけが鮮やかに見えているのだと……。自然がひとりでに描いた「山水画」の趣き。日中はひどく暑苦しく見える鶏頭も、ここではむしろ、ひんやりとしている。鶏頭がこのように、ひんやりと詠まれた例は少ない。少ないなかで、たとえば角川春樹に「鶏頭に冷えのあつまる朝かな」がある。悪くはない。が、着眼は鋭いとしても、いささか頭でこしらえ過ぎているのではなかろうか。この場合は、どうしても大串章の句のほうが一枚も二枚も上手(うわて)だと思う。自然をそのつもりでよく観てきた人には、頭や技巧だけではなかなか太刀打ちできないということだろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)


August 1681998

 魚どもや桶とも知らで門涼み

                           小林一茶

が桶に入れられて、門口に置かれている。捕われの身とは知らない魚どもは、のんびりと夕涼み気分で泳いでいる。「哀れだなあ」と、一茶が眺めている。教室でも習う有名な随想集『おらが春』に収められた句だ。が、この句の前に置かれた文章は教室では教えてもらえない。「信濃の國墨坂といふ所に、中村何某といふ醫師ありけり」。あるとき、この人が交尾中の蛇を打ち殺したところ、その晩のうちに「かくれ所のもの」が腐り、ぽろりと落ちて死んでしまった。で、その子が親の業をついで医者になった。「松茸のやうな」巨根の持ち主だったというが、「然るに妻を迎へて始て交はりせんとする時、棒を立てたるやうなるもの、直ちにめそめそと小さく、燈心に等しくふはふはとして、今更にふつと用立たぬものから、恥かしく、もどかしく、いまいましく、婦人を替へたらましかば、叉幸あらんと百人ばかりも取替へ引替へ、妾を抱えぬれど、皆々前の通りなれば、狂気の如く、唯だ苛ちに苛ちて、今は獨身にて暮しけり。……」。物語ではなく、現実にもこんな話があるのだと感じ入った一茶の結語。「蚤虱(のみ・しらみ)に至るまで、命惜しきは人に同じからん。ましてつるみたるを殺すは罪深きわざなるべし」。(清水哲男)




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