クリントンに女。エリツィンには酒。しからば、小淵には何? クリキントンかなあ。




1998ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1981998

 無職なり氷菓溶くるを見てゐたり

                           真鍋呉夫

職は、人を茫然とさせる。何度か失職の体験があるので、この句はよくわかる。いざ無職になってみると、社会というものが、職のある人たちだけでできていることが骨身にしみてよくわかる。ブツブツ文句を言いながらも、会社に通うことでしか社会に参画できないのが、ほとんどの現代人なのだ。もとより、私も例外ではなかった。誰も助けてはくれない。などと泣き言を言う前に、無職になると、自分が何者であるかが全くわからなくなる。結構、コワい感覚だ。住むべきアパートもなく、日銭を稼いでは山手線のアイマイ宿を転々とした。そんな生活には、詩もなければヘチマもない。目の前の氷菓が溶けようがどうなろうが、関係はない。あったのは、茫然とした二十七歳の若さだけだった。そんな生活のなかで、ひょいと河出書房という出版社に拾われたことは、我が人生最高のラッキーな出来事だと思っている。その河出もすぐに倒産するのだが、束の間にもせよ、あんなに楽しい職場はなかった。真鍋呉夫さんにも、そのころお会いできた。「書かない作家」として有名で、この句を読むと、その当時の真鍋さんを懐しく思いだす。茫然としながらも、呑気に俳句なんかをひねるところが、いかにも真鍋さんらしいのである。『花火』(1941)所収。(清水哲男)


August 1881998

 はだかにて書く一行の黒くなる

                           小川双々子

だかで物を書く。ハタから見ればいささか滑稽な姿かもしれないが、珍しいことではない。私にも、ずいぶんと経験がある。汗がしたたるから、書いた文字はにじんで黒くなる。現象的には、それだけのことを書いた句だ。でも、それだけのことを書いた句が、なぜ読者の心にひっかかるのだろう。私の考えでは、はだかが人間の原初の姿であるのに対して、文字は原初から遠く離れた着衣の文化だからだと思う。すなわち、着衣を前提にして、文字による表現は幅と深みを獲得してきた。はだかで暮らせる人には、複雑な文字表現など必要はないのである。はだかで原稿などを書いた体験からすると、自分で自分が笑えてくるような感じがあって、実に不思議な精神状態になる。そしてその次には、はだかでいる自分が、まぎれもなくいつかは消滅する生物であると自覚され、汗ににじんだ黒い文字列がひどく虚しく見えてきてしまう。あえて一言で、この心境を述べるならば「黒い孤独」とでも言うしかないようだ。これを気障な台詞と感じる人は、幸福な人である。人間の着衣文化を、当たり前だと信じて疑わない人である。皮肉で言うのではない、念のため。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


August 1781998

 朝の舟鶏頭の朱を離れたり

                           大串 章

霧のなかで、舟が静かに滑るように岸を離れていく光景である。清潔感に満ちた句だ。霧などとはどこにも書いてないけれど、岸辺の様子が「鶏頭の朱」だけに絞られていることから、読者は霧を思い浮かべるのである。すなわち、たちこめる霧が他の草や木を隠してしまい、作者には「鶏頭の朱」だけが鮮やかに見えているのだと……。自然がひとりでに描いた「山水画」の趣き。日中はひどく暑苦しく見える鶏頭も、ここではむしろ、ひんやりとしている。鶏頭がこのように、ひんやりと詠まれた例は少ない。少ないなかで、たとえば角川春樹に「鶏頭に冷えのあつまる朝かな」がある。悪くはない。が、着眼は鋭いとしても、いささか頭でこしらえ過ぎているのではなかろうか。この場合は、どうしても大串章の句のほうが一枚も二枚も上手(うわて)だと思う。自然をそのつもりでよく観てきた人には、頭や技巧だけではなかなか太刀打ちできないということだろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)




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