「清水よ、勉強してるかっ」。新宿で酔った田村隆一さんの開口一番だった。合掌。




1998ソスN8ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2881998

 朝顔や役者の家はまだ覚めず

                           川崎展宏

者の仕事はどうしても夜が遅くなるので、起きるのも遅い。せっかく立派に朝顔を咲かせているというのに、家の人々は見ることもなく寝ているのである。しかし、この光景に「ああ、もったいない」と、作者が嘆じているわけではない。それよりも、こうやって季節の花をきちんと咲かせている役者その人の人となりに、いささか感じ入っているのだ。好感を抱き、微笑している。どんな家にも、その家ならではの表情がある。その家のたたずまいを見るだけで、住んでいる人の生活ぶりや人柄が、ある程度はわかってしまう。ましてや役者ともなれば人気商売だから、たとえ自分が見ることもない朝顔であろうとも、きちんと他人に見せる必要があるわけだ。自分は寝ていても、演技演出は片時も忘れるわけにはまいらないのである。その点、表情を持たないマンションの暮らしは楽だ。言葉を変えれば味気ない。役者やタレントが好んで豪華マンションに住みたがるのも、住む場所にまで演技演出を考えなくてもよいからだろう。「豪華」という演技演出さえあれば、あとのことに神経を使わずにグーグー眠れるからである。好意的に考えれば、そういうことだ。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


August 2781998

 夕立を壁と見上げて軒宿り

                           上野 泰

わかに空が暗くなり、「来るぞ」と思う間もなくザーッと降ってきた。とりあえず、どこでもいいから適当な家の軒下にかけこんで、夕立をやり過ごす。猛烈な雨は、句のように、滝というよりも壁のようである。でも、夕立はすぐに止むだろうと思うから、暗い気分にはならない。物凄い降りを楽しむ余裕がある。もっと激しく降れと思ったりする。道を急いでいる人以外には、自然が与えてくれた時ならぬ娯楽だと言ってもよいだろう。そんな軒先に数人の人が溜まると、どういうわけか、誰かが「夕立評論家」になるのも楽しい。「まあ、いっときの辛抱ですよ」「ほら、西の空が明るくなってきた。もうすぐ止みますからね」などと、誰も頼んだわけじゃないのに、解説してくれる人が出てくる。そのうちに、見ず知らずのその人に相槌を打つ人も出はじめて、ほぼ全員の気分がなごみはじめたところで夕立は終わりになる。最近は軒先のある家がなくなってきたから、こうした夕立の楽しさもない。楽しさがないどころか、運が悪いと、左右に家屋はあってもずぶぬれの憂き目にあってしまう。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)


August 2681998

 西日さしそこ動かせぬものばかり

                           波多野爽波

いに納得。よくわかります。晩夏から初秋にかけての西日は、太陽の位置が下がってくることもあって強烈だ。眩しさもさることながら、暑さも暑しで、たまらない。そんなときに気になるのは、置かれている家具類である。カーテンはとっくに変色しているし、タンスや本箱はバリバリに乾いてしまう。毎夏、どうにかしなければと思うのだけれど、いくら思案をしても「そこ動かせぬものばかり」というわけで、結局は思案だけに終わってしまう。ちょっびりと腹立たしくもあり、またちょっびりと笑えてもくる。瑣末な感覚のスケッチにすぎないといえばそれまでだが、こうしたトリビアルな感覚を読者全体に納得させうるところが、この短詩型の特色だと言えよう。というよりも、まずは納得を前提にして作句するというのが、ほとんどの俳人の姿勢である。正岡子規が提唱した「印象明瞭の句」とはそういうものであるし、俳句はまず読者の漠然たる常識に依拠しつつ、その常識をより明確化することで完成する。俳句に遊ぶ現代詩人の多くの作品が駄目なのは、この「常識」をわきまえていないからである。そしてもうひとつその前に、俳句を一段軽く見る「非常識」が大いに災いしている。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます