外国産松茸が昨年の半値程度で出回っている。北朝鮮や中国で異常発生したため。




1998ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2981998

 稲妻や将棋盤には桂馬飛ぶ

                           吉屋信子

台将棋。涼みがてら、表で将棋を指している。作者は観戦しているのだろう。なかなか白熱した戦いだ。と、遠くの空に雷光が走り、同時に盤上では勢いよく桂馬が飛んだ。「さあ、勝負」と気合いの入ったところだ。見ている側にも力が入る。風雲急を告げるの図。将棋の駒の動かし方を知らないとわからない句だが、目のつけどころが芝居がかっていて面白い。吉屋信子の大衆小説家としての目が生きた句だ。俳句のプロだと、ちょっと気恥ずかしくて、ここまでは表現できないのではないだろうか。素人の勝利である。こういうことは、時々起きる。ヘボながら、私も将棋好きだ。小学生の頃から、村の若い衆と指していた。学校の遊び時間でも、指した記憶がある。他に娯楽がなかったせいで、私の世代はみな駒の動かし方くらいは知っているのだ。だから「坂田三吉端歩(はしふ)を突いた、銀が泣いてる……」という歌も好きなのであり、「桂馬の高飛び歩の餌食」という一種の箴言をいまだに使ったりする。使おうとして「待てよ、いまの若者に通用するかな」などと、ふとためらったりもする。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


August 2881998

 朝顔や役者の家はまだ覚めず

                           川崎展宏

者の仕事はどうしても夜が遅くなるので、起きるのも遅い。せっかく立派に朝顔を咲かせているというのに、家の人々は見ることもなく寝ているのである。しかし、この光景に「ああ、もったいない」と、作者が嘆じているわけではない。それよりも、こうやって季節の花をきちんと咲かせている役者その人の人となりに、いささか感じ入っているのだ。好感を抱き、微笑している。どんな家にも、その家ならではの表情がある。その家のたたずまいを見るだけで、住んでいる人の生活ぶりや人柄が、ある程度はわかってしまう。ましてや役者ともなれば人気商売だから、たとえ自分が見ることもない朝顔であろうとも、きちんと他人に見せる必要があるわけだ。自分は寝ていても、演技演出は片時も忘れるわけにはまいらないのである。その点、表情を持たないマンションの暮らしは楽だ。言葉を変えれば味気ない。役者やタレントが好んで豪華マンションに住みたがるのも、住む場所にまで演技演出を考えなくてもよいからだろう。「豪華」という演技演出さえあれば、あとのことに神経を使わずにグーグー眠れるからである。好意的に考えれば、そういうことだ。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


August 2781998

 夕立を壁と見上げて軒宿り

                           上野 泰

わかに空が暗くなり、「来るぞ」と思う間もなくザーッと降ってきた。とりあえず、どこでもいいから適当な家の軒下にかけこんで、夕立をやり過ごす。猛烈な雨は、句のように、滝というよりも壁のようである。でも、夕立はすぐに止むだろうと思うから、暗い気分にはならない。物凄い降りを楽しむ余裕がある。もっと激しく降れと思ったりする。道を急いでいる人以外には、自然が与えてくれた時ならぬ娯楽だと言ってもよいだろう。そんな軒先に数人の人が溜まると、どういうわけか、誰かが「夕立評論家」になるのも楽しい。「まあ、いっときの辛抱ですよ」「ほら、西の空が明るくなってきた。もうすぐ止みますからね」などと、誰も頼んだわけじゃないのに、解説してくれる人が出てくる。そのうちに、見ず知らずのその人に相槌を打つ人も出はじめて、ほぼ全員の気分がなごみはじめたところで夕立は終わりになる。最近は軒先のある家がなくなってきたから、こうした夕立の楽しさもない。楽しさがないどころか、運が悪いと、左右に家屋はあってもずぶぬれの憂き目にあってしまう。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)




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