関東では、先日の豪雨で野菜の値段が高騰。ナス、ニンジン、ダイコン、ネギ等々。




1998ソスN9ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0991998

 物書て扇引さく余波かな

                           松尾芭蕉

波は「なごり」。奥の細道の旅で、金沢から連れ立ってきた北枝が越前松岡まで来て別れるときの句である。句意は、別離にあたって北枝に進呈する句を扇面に書いてはみたものの、どうも意に満たないので、引き裂いてしまったというところだろう。ところが、北枝の書き残した記録によると、このとき芭蕉は「もの書て扇子へぎ分る別哉」と書いたのだそうだ。「へぎ分る」は扇子を裂くのではなく、扇子の骨に張り合わせてある二枚の地紙を剥ぎ分けることだから、相当に句の趣きは変わってくる。掲句のほうが格好はよろしいが、事実は北枝の書いているとおりだと思われる。扇子の表に芭蕉が句を書き、北枝が裏面に脇句をつけ、それをていねいにはがしてお互いの記念としたのである。当時の旅での別れは、生涯の別れであった。いい歳をした大人が、扇子の紙をていねいに引き剥がしている図も、もはや生きて会うことはないだろうという意識を前提にして、はじめて納得がいく。その意味からしても、芭蕉の決定稿より初案のほうがよほどいいのにと、私などは思ってしまう。なお、当歳時記では、句の季語は作られた季節を考慮して「秋扇」に分類しておく。(清水哲男)


September 0891998

 バス降りし婆が一礼稲穂道

                           岸田稚魚

渡すかぎり、たわわに稲の実った田圃道。そこで一人の老婆がバスを降り、彼女は去っていくバスに一礼したのだった。旅の途中の作者は、バスの座席からそれを目撃している。いまどきバスにお辞儀をする人はいないとは思うが、この句が作られた戦後も十数年頃までは、まだこういう礼節を守る人がいた。つまり、バスには「乗せていただく」ものという観念が生きていたのである。単に人を乗せて運ぶ道具ではなく、とりわけて田舎のバスは遠い都会につながっている乗り物ということで、畏怖の念すらを覚える「メディア」そのものだった。そんな乗り物に乗れる人は、村のおエライさんか、たまに都会からやってくる紳士か、とにかくこの老婆は日常的にバスを利用している人ではないと読める。たぶん乗っていた間は緊張の連続だったろうし、降りてからもその緊張感はつづいていて、いまどきの私たちのようにプイとバスに背を向けてしまうことなどはできなかったのだ。礼節と言ったが、礼節とはこのように、緊張のうちに行う無我のふるまいによく露出される。住んでいた村にバスが通いはじめたとき、これに乗れる日など来るわけもないと思っていた昔の少年に、この句は泣けとごとくに浸み入って来た次第だ。『雪涅槃』(1979)所収。(清水哲男)


September 0791998

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

                           正岡子規

にこれほど有名で、これほどわけのわからない句も珍しい。何度も考えてみたのだが、結局は不可解のままに放置してきた。他の人のいろいろな解釈を読んでも、一つもピンとくるものはなかった。ところが、最近俳誌「未来図」(1998年9月号)を開くに及んで、やっと腑に落ちる解説に会うことができた。目から鱗が落ちた思いである。柿の季節にはいくらか早すぎるが、とても嬉しいので早速引用紹介しておきたい。作家・半藤一利氏の講演記録からの抜粋である。明治十八年十月、子規は漱石から十円を借りて松山より東京に戻る途中、関西に遊んだ。「私は簡単に解釈します。松山の子規記念館に、子規の遺しました『人物見立帳』という直筆の本があります。河東碧梧桐は『大根』、誰某は『玉蜀黍』とか書いてあり、漱石の所を見ると『柿』とあります。つまり子規さんの見立で言うと漱石は柿なんです。ですから、『柿くへば』というのは漱石を思い出しているんですね。お前さんから貰った十円の金をここでみな使っちまったという挨拶の句なんです」。道理で句のわからないわけがわかったと、私は膝を打ったのだけれど、この句を有名にしている理由はまた別にあるということも、はっきりとわかった。蛇足ながら、子規はこの当時としては大金の十円を、ついに返さなかったという。漱石の胃も痛むわけだ。(清水哲男)




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