September 111998
新涼の画を見る女画の女
福田蓼汀
技アリの一句。会場の様子を画として見ている。画を見るのに少し疲れた作者は、長椅子にでも腰掛けているのだろう。会場は閑散としていると思われる。と、そこに妙齢の美女が現れた。どんな画の前でたたずむのかと好奇の目を光らせていると、彼女は女性が描かれている画の前で足を止めた。裸婦像かもしれない。そこで彼女の視線を追って、作者はもう一度その画を眺めやり、また件の女性に目を戻したというわけだ。したがってこの場合の新涼は、天然自然のそれというよりも、むしろ女が女の画をまっすぐに見つめている爽やかな雰囲気を表現している。最近はたまにしか展覧会に出かけないが、他人がどんな画に興味を示すのかは、かなり気になる。その他人が美女となれば、なおさらだ。わかっているのか、わかっていないのか。あるいは、お前なんかにわかってたまるかなどと、意地悪い目で会場の客を見ていたりする。観賞眼に自信があるわけではない。曲がりなりにも美術記者として社会に出た経験から、とくに他人の趣味嗜好が気になるだけである。若き日の職業柄からとはいえ、まことにもって因果なことである。(清水哲男)
December 171998
狸汁花札の空月真赤
福田蓼汀
小料理屋か何かで一杯やりながら、親しい仲間と花札で遊んでいるという図。小腹が空いてきたので、みんなで狸汁を注文した。しばし休憩である。運ばれてきた狸汁をすすりながら、ちらばった花札を見るともなく見ていると、ふと真っ赤な月の札に目がいった。人を化かすのが専門の狸だけに、真っ赤な月の様子もただならぬ気配に思えたというところか。小さな花札を一挙に視覚的に拡大して、句全体を妖しい雰囲気に仕立て上げている奇妙な味が面白い。ところで、花札に「真赤な月」の絵柄はない。俗に言う「坊主」札に月が出ているものはあるけれど、月が赤いのではなく、月光にあたる部分(山の上の空)が赤く塗られているだけだ。月それ自体は真っ白である。本当は空が真っ赤ということなのだが、この札を短い言葉で形容するとなれば「空月真赤」と言うしかないだろう。そして、問題は狸汁。作者にとっての問題ではなく、私にとっての問題なのだ。というのも、これまでに一度も食べたことがないからで、いったいどういう味がするものやら見当もつかない。味噌汁にするのが普通だと聞いてはいる。でも、食したことのある友人も皆無だし、手元の角川版歳時記にも「冬の狸は脂肪が乗って悪くはないという」などと伝聞調の記述があるばかり。この解説者も、食べたことはないようだ。どなたか、狸汁を出す店をご存じの方がおられましたら、ぜひともご教示いただきたく……。(清水哲男)
July 222009
蝶白く生れて瀑の夜明けかな
八十島 稔
瀑(たき)は滝で夏。滝も地形それぞれによってさまざまな形状がある。掲出句の滝は「華厳瀑にて」という詞書があるから、ドードーと長々しくダイナミックに落ちる日光・中禅寺湖から落ちる滝である。私は夜明けの滝をつぶさに見た経験はないけれど、白い帯になって落ちつづける滝のしぶきから、あたかも白い蝶が次々に生まれ出てくるような勢いが感じられるのであろう。あたりを払うようなダイナミズムだけでなく、蝶を登場させたことで可憐な清潔感が強く表現されている。稔は岩佐東一郎や北園克衛らとともに、戦前に俳句を盛んに作っていた詩人の一人であり、句集『柘榴』を「風流陣文学叢書」の一冊として刊行している。同じ華厳滝を詠んだ句「わが胸を二つに断ちて華厳落つ」(福田蓼汀)には、対照的な豪快な調べがあるけれど、掲出句は静けささえ感じさせるきれいな夜明けである。私事になるが、日光の華厳滝はもう二十数年以上見ていない。真冬のそれを見たときには、別な凄まじさで圧倒された。滝の句では、他に中原道夫の「瀧壷に瀧活けてある眺めかな」に悠揚迫らぬ味わいがあって忘れがたい。『柘榴』(1939)所収。(八木忠栄)
September 102014
どの家もまだ起きてゐる良夜かな
宮田重雄
月がとても素晴らしく良い夜だから、良夜。おもに十五夜をさす。今年九月の満月は暦の上では昨九日だった。良い月が出ている夜は、すぐに寝てしまうのがどこかしらもったいない気がする。だから夜遅くまで人は思い思いに起きている。集合住宅ではなかなかその実感はわかない。涼しくなった時季に縁側や庭で月の光のもと、何やかやとぐずぐずと時間を過ごしていたいのは、一般的に人間の自然な気持ちかもしれない。「徒然草」に「八月十五日、九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なるゆゑに、月を翫ぶに良夜とす。」とある。「月を翫(もてあそ)ぶ」などという味わい深い言葉は、もう私たちの日常からは遠い言葉になってしまった。宮田重雄を知っている人は今や少なくなっただろう。画家であり医者さんだった。むかしNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラー回答者だった、という記憶が残っている。福田蓼汀の句に「生涯にかかる良夜の幾度か」がある。なるほど実感であろう。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)
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