September 131998
観覧車より東京の竹の春
黛まどか
竹は秋になると青々と枝葉を茂らせる。この状態が「竹の春」。作者によれば、この観覧車は向丘遊園のそれだそうだが、そこからこのように竹林が見えるとなると、一度行ってみたい気になった。最近の東京では、郊外でもなかなか竹林にはお目にかかれない。竹は心地よい。元来が草の仲間だから、木には感じられない清潔な雰囲気がある。木には欲があるが、竹にはない。観覧車から見える竹林には、おそらく草原ないしは草叢に似た趣きがあるだろう。作者の責任ではないにしても、せっかくの「東京の竹の春」なのだから、こんなに簡単に突き放すのではなくて、もう少しどのように見えたかを伝えてほしかった。「竹の春」という季語に、よりかかり過ぎているのが残念だ。惜しい句だ。ところで、世界でいちばん有名な観覧車といえば、映画『第三の男』に出てきたウィーンの遊園地の大観覧車だろう。今でもあるそうだが、実際に見たことはない。男同士で観覧車に乗るという発想の奇抜さもさることながら、あの観覧車自体が持っている哀しげな表情を気に入っている。映画のストーリーとは無関係に、ウィーンの観覧車は、どんな遊園地にもつきまとう「宴の哀しみ」を象徴しているように思える。あれに乗ると、何が見えるのだろうか。誰か、俳句に詠んでいないだろうか。『恋する俳句』(1998)所収。(清水哲男)
November 252006
大熊手使へぬ小判食へぬ鯛
柴原保佳
一度聞いただけで覚えてしまう句というのがある。たいていリズムがよく、くっきりとしている。昨年の十一月知人が、昨日の句会で先生の特選だった句よ、と教えてくれたこの句、以来忘れられない。季題は熊手、十一月の酉の日に開かれる酉の市で売られる、開運、商売繁盛の縁起物である。今年の十一月十六日は二の酉、小春日がそのままゆるゆる暮れてしまったような宵の口に、浅草の鷲(おおとり)神社に出かけた。入り口には提灯がずらりと掲げられ、とにかく明るい。その光の中に一歩を踏み入れると、両側にぎっしりと熊手が売られている。店ごとに工夫が凝らされているが多くは、お福面を中心に、鶴亀、松竹梅、宝船、扇、注連縄、招き猫等々がこれ以上めでたくなれないとばかりに熊手の表を飾り、ひときわ輝く大判小判は、伍十両、百両とざくざくである。そして一番下に、真っ赤な鯛が向かい合ってはねている。この句の作者は、東京下町で創業百年の老舗の店主、幼い頃から熊手を見て育ったのだろう。この小判や鯛が本物だったら、それは誰もが思うはずである。しかし、いざ俳句に詠もうとすると、他の人が気づかないような発見や表現や情などを模索し、熊手の裏側をのぞいてみたりする。使へぬ小判食へぬ鯛、は、リズムがよいだけでなく、熊手に飾られた数々の福の中から、巧みに人間の欲望の象徴を抜き出してみせて小気味よい。人伝に聞いて覚えた句、出典を求めてホトトギス雑詠欄を探すと、四月号の二句欄に発見。並んで〈私も無料老人竹の春〉。「ホトトギス」(2006年4月号)所載。(今井肖子)
October 302015
鵜は低く鶫は高き渡りかな
坂部尚子
川面に鵜(ウ)が低空飛行している。その遥か上空に一団の鳥がざわざわと渡っている。鶫(ツムギ)である。渡り鳥を見ていると何故安住の地を探し留まらないのか不思議に思う事がある。 藤田敏雄作詞の若者たちの歌詞ではないが、「君の行く道は、果てしなく遠い、だのになぜ、歯をくいしばり君は行くのか、そんなにしてまで」と思うのである。子育てとか食糧だとか鳥には鳥の都合があるのだろう。北から渡った鶫たちはやがて人里に散り、我々の周辺を跳ね歩く事となる。他に<萩刈るや裏山渡る風の音><色葉散る幻住庵の崩れ簗><円空の墓も小径も竹の春>など。「俳壇」(2015年1月号)所載。(藤嶋 務)
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