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1998ソスN9ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2591998

 栗食むや若く哀しき背を曲げて

                           石田波郷

者が栗を食べている。情景としてはそれだけだが、人が物を食べる姿には、たしかにどこか哀しいものがある。高等動物だなんて言っていても、しょせんは食わなければ何もはじまらないのだ。この若者の場合はなりふりかまわずの餓鬼的な食べ方ではないのだけれど、相手が栗だから一心不乱に厚皮を剥き渋皮を取って食べている……。そこが哀しい。若いくせに背を曲げて栗に集中している姿には、やはりどこかに餓鬼道に通じるそれがあるのだ。自画像かもしれない。ところで、先日のテレビで「栗の皮剥き」グッズなるものが紹介されていた。胡桃割り器の内側に、小さな鋸の刃がついていると思えばよい。これで栗をキュッとはさむと、鋸の刃が栗の腹に剥きやすい傷をつけるという仕掛けだ。値段は、たしか780円だった。誰が使うのかは知らないが、こんな道具で栗をどんどん「食(は)まれ」たヒには哀しくもなんともないわけで、さすがの波郷の感性をもってしてもお手上げだろう。句にはなるまい。(清水哲男)


September 2491998

 颱風が逸れてなんだか蒸し御飯

                           池田澄子

生俳句の伝統を尊重する人には、この「なんだか」という表現に引っ掛かるだろう。つまり、この「なんだか」の中身を明らかにするのが、写生俳句の基本だからである。でも、一方では現実的に「なんだか」としか言いようのない事象もたくさんあるわけで、幸いに逸れてくれた颱風(たいふう)なのだが、影響でもたらされた「なんだか」どろんとした蒸し暑さは、このように表現されたことではじめて明確になっている。心象的には、この句も写生句なのだ。それにしても「蒸し御飯」とは、恐れ入った。なつかしくも巧みな比喩である。いまどきの冷えた御飯は電子レンジでチンする家庭が多いのだろうが、昔はどこの家庭でも蒸し器にかけて温め直したものである。温まった御飯は水気を含んでニチャニチャとしており、固い御飯の好きな私には「なんだか」お世辞にも美味とは言えない代物だった。蒸し方の巧拙もあるのだろうが、たいていは句のように、鬱陶しい感じのする味がしたものだ。今年は、ここに来て颱風がポコポコと発生しはじめた。逸れてほしいが、「蒸し御飯」状態も御免こうむりたい。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


September 2391998

 梨を剥く一日すずしく生きむため

                           小倉涌史

の場合の「一日」は「ひとひ」と読ませる。「秋暑」という季語があるほどで、秋に入ってもなお暑い日がある。残暑である。今日も暑くなりそうな日の朝、作者はすずしげな味と香りを持つ梨を剥いている。剥きながら作者が願っているのは、しかし、体感的なすずしさだけではない。今日一日を精神的にもすずやかに過ごしたいと念じている。「すずしく生きむ」ために、大の男がちっぽけな梨一個に思いを込めている。大げさに写るかもしれないが、こういうことは誰にでもたまには起きることだ。そんな人生の機微に触れた佳句である。ところで、作者の小倉涌史さんは、この夏の七月末に亡くなられたという。享年五十九歳。このページの読者の方が知らせてくださった。小倉さんとは面識はなかったが、ページは初期から読んでくださっており、検索エンジンをつけるときのモニターにもなっていただいた。もっともっと元気で「すずしく生き」ていただきたかったのに、残念だ。心よりご冥福をお祈りします。『落紅』(1993)所収。(清水哲男)




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