大風で近所の樹が倒れた。直ちに市役所の人が撤去。倒れる迄アカシアとは知らず。




1998ソスN9ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2691998

 山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨

                           京極杞陽

じ秋に降る雨でも、その土地によって風情は違う。山陰は直撃は少ないにしても、台風の影響をとても受けやすい地方だから、作者が言うように「じやじやじやじや」と音立てて降ることが多い。とくにこの時期には、陽気とまではいかなくとも、気持ちよいくらいに「じやじやじやじや」と降る。かつてのヒット曲「湯の町エレジー」(舞台は伊豆だった)のように、しっとりと「どこまで時雨れゆく秋ぞ……」などと、情緒的にはいかないのである。けれども、こういうことは土地の人ではない誰かに言われてみないとわからないことで、山陰の人は、秋の「じやじやじやじや雨」が当たり前だと思っている。そこに、作者は気がついたわけだろう。その意味からすると、世の歳時記が「秋の雨」を季語として「秋雨はどこかうそ寒く」などと書いているのは気配り不足と言おうか、昔の京都中心の季節感にとらわれすぎている。あなたがお住まいの地方の秋の雨は、どんな感じで降るのでしょうか。私の暮らす東京では、うーむ、やはり京都と変わらない「しとしと雨」でしょうかね。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


September 2591998

 栗食むや若く哀しき背を曲げて

                           石田波郷

者が栗を食べている。情景としてはそれだけだが、人が物を食べる姿には、たしかにどこか哀しいものがある。高等動物だなんて言っていても、しょせんは食わなければ何もはじまらないのだ。この若者の場合はなりふりかまわずの餓鬼的な食べ方ではないのだけれど、相手が栗だから一心不乱に厚皮を剥き渋皮を取って食べている……。そこが哀しい。若いくせに背を曲げて栗に集中している姿には、やはりどこかに餓鬼道に通じるそれがあるのだ。自画像かもしれない。ところで、先日のテレビで「栗の皮剥き」グッズなるものが紹介されていた。胡桃割り器の内側に、小さな鋸の刃がついていると思えばよい。これで栗をキュッとはさむと、鋸の刃が栗の腹に剥きやすい傷をつけるという仕掛けだ。値段は、たしか780円だった。誰が使うのかは知らないが、こんな道具で栗をどんどん「食(は)まれ」たヒには哀しくもなんともないわけで、さすがの波郷の感性をもってしてもお手上げだろう。句にはなるまい。(清水哲男)


September 2491998

 颱風が逸れてなんだか蒸し御飯

                           池田澄子

生俳句の伝統を尊重する人には、この「なんだか」という表現に引っ掛かるだろう。つまり、この「なんだか」の中身を明らかにするのが、写生俳句の基本だからである。でも、一方では現実的に「なんだか」としか言いようのない事象もたくさんあるわけで、幸いに逸れてくれた颱風(たいふう)なのだが、影響でもたらされた「なんだか」どろんとした蒸し暑さは、このように表現されたことではじめて明確になっている。心象的には、この句も写生句なのだ。それにしても「蒸し御飯」とは、恐れ入った。なつかしくも巧みな比喩である。いまどきの冷えた御飯は電子レンジでチンする家庭が多いのだろうが、昔はどこの家庭でも蒸し器にかけて温め直したものである。温まった御飯は水気を含んでニチャニチャとしており、固い御飯の好きな私には「なんだか」お世辞にも美味とは言えない代物だった。蒸し方の巧拙もあるのだろうが、たいていは句のように、鬱陶しい感じのする味がしたものだ。今年は、ここに来て颱風がポコポコと発生しはじめた。逸れてほしいが、「蒸し御飯」状態も御免こうむりたい。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)




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