「現代詩手帖」が田村隆一特集。「ユリイカ」は少々「詩学」「詩と思想」は無視?




1998ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2991998

 秋晴のひびきをきけり目玉焼

                           田中正一

ーンと気持ちよく晴れ上がった秋の空。朝食だろう。出来たてで、まだジュージューいっている目玉焼きを勢いよく食卓に置いたところだ。「ひびきをきけり」が、よく利いている。乱暴に置いたのではなく、さあ「食べるぞ」と気合いを入れて置いたのである。目玉焼きは英語でもずばり「サニーサイド・アップ」というように、太陽を連想させる。日本の四季のなかでは、ちょっと黄みがかった秋の太陽にいちばん近いだろう。その意味からも、句の季節設定には無理がないのである。ところで、秋というと天気のよい澄んだ日を思い浮かべるのが普通だが、気象統計を見ると、秋は曇りや雨の日がむしろ多い。なかなか、句のようには晴れてくれないのだ。だから秋晴れが珍重されてきたのかといえば、そうでもなくて、私たちは毎年のように「今年の秋は天気が悪い」などと、ブツブツ言い暮らしている。あくまでも、根拠もなしに秋は天気がよいものと思い決めているのは、なぜなのだろうか。『昭和俳句選集』(1977)所収。(清水哲男)


September 2891998

 恋びとよ砂糖断ちたる月夜なり

                           原子公平

の句を知ったのは、もう十年以上も前のことだ。なんだか「感じがいいなア」とは思ったけれど、よくは理解できなかった。このときの作者は、おそらく医者から糖分を取ることを禁じられていたのだろう。だから、月見団子も駄目なら、もちろん酒も駄目。せっかくの美しい月夜がだいなしである。そのことを「恋びと」に訴えている。とまあ、自嘲の句と今日は読んでおきたい。そして、この「恋びと」は具体的な誰かれのことではない。作者の心のなかにのみ住む理想の女だ。幻だ。そう読まないと、句の孤独感は深まらない。「恋びと」と「砂糖」、「女」と「月」。この取り合わせは付き過ぎているけれど、中七音で実質的にすぱりと「砂糖」を切り捨てているところに、「感じがいいなア」と思わせる仕掛けがある。つまり、字面に「砂糖」はあるが、実体としてはカケラもないわけだ。病気の作者にしてみれば「殺生な、助けてくれよ」の心境だろうが、おおかたの読者は微笑さえ浮かべて読むのではあるまいか。ちなみに、今年の名月は十月五日(月)である。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


September 2791998

 赤とんぼとまつてゐるよ竿の先

                           三木露風

れっ、どこかで見たような……。そうです。三木露風の有名な童謡「赤とんぼ」の一節です。しかし、これは童謡が書かれるずっと以前、露風が十三歳のときの独立した俳句作品なのです。そういう目で読むと、やはりどこか幼い句のようにも思えます。が、もはやこの句を童謡と切り離して読むことは、誰にも不可能でしょう。純粋に俳句として読もうとしても、いつしかかの有名なメロディーが頭の中で鳴りだしてしまうからです。露風ならずとも、このように子供の頃のモチーフを大人になってから繰り返して採用した事例は多く、その意味では子供時代の発想も馬鹿になりません。ところで、童謡「赤とんぼ」の初出は大正十年(1921)八月の童謡雑誌「樫の実」です。露風、三十二歳。現在うたわれているものとは歌詞が少しちがっていて、たとえば「夕焼、小焼の、/山の空、/負はれて見たのは、/まぼろしか」というものでした。この秋、露風が後半生を過ごした三鷹市で、大展覧会が開かれます。晩年に書いた風刺詩が初公開されるそうで、楽しみです。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます