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October 03101998

 運動会今金色の刻に入る

                           堀内 薫

しかに、運動会には金色(こんじき)という形容にふさわしい刻(とき)がある。最後の種目、たとえば花の800メートル・リレー競争の行われるあたりが、その時刻だろう。競技も最高に(金色に)盛り上がるが、その頃になると日の光りも秋特有の金色となってくる。スタート・ラインに集まってくる選手たちの影が長く尾を引きはじめる時刻だ。活気溢れるイベントの最中に、はやくも金色の秋の日ざしが夕暮れの近さを告げているわけで、華やかな気分のなかに生まれてくる一種の衰亡感は、私たちのセンチメンタリズムを心地好く刺激してやまない。まさに、金色の刻ではないか。私は鈍足だったから、運動会は嫌いだった。が、たった一度だけ、二人三脚リレーで大成功した経験がある。それは、たまたま組んだ友人が左利きだったおかげであり、鈍足でも二位以下に大差をつけることができて、このときの快走だけは忘れられない。運動会のシーズンだ。たまに見に行くと、鈍足の子のことばかりが気にかかる。考えようによっては、最後の種目がはじまる頃が、そんな子たちにとっての別の意味での最高の「金色の刻」でもあるわけだ。(清水哲男)


May 0752004

 麦秋や教師毎時に手を洗ふ

                           堀内 薫

語は「麦秋(麦の秋)」で夏。感想を書こうとして、待てよと筆が止まった。なぜ教師が「毎時に手を洗ふ」のかが、若い読者にピンと来るだろうかと思ったからだ。「毎時に」は授業時間の区切りごとにということで、普通の感覚からすると、かなり作者は頻繁に洗っている感じを受ける。といってこの場合、べつに作者が特別に清潔好きだから洗うわけじゃない。むろん、気分転換の意味合いもあるだろうけれど、それだけではない。昔の教師は黒板に白墨(はくぼく)で板書きしたせいで、手が白墨の粉まみれになったから、一時限ごとに汚れを落とす必要があったのである。実用としての手洗いなのだ。いまはホワイトボードやグリーンボードに、粉の出ないチョークで文字などを書くのが普通だろう。おかげで粉まみれとは無縁になり、教師は劣悪な白墨禍から救われたというわけだ。したがって、いまの若者には掲句がよくわからないかもしれないと思った次第である。麦畑を一望できる学校。手を洗いながら、作者は麦の秋の情景を見ている。水稲の実りのころも美しいが、麦秋の情景には元気な光りがある。夏に向かって物みな育ち行く勢いを帯びた光りだ。新学期がはじまってクラスも落ち着き、授業にエンジンがかかってくるころでもある。そんな季節だから、手を洗う水の冷たさも心地よく、作者は充実した心境にある。そんな職業人としての喜びが、句の端に洩れ光っているのがわかる。『堀内薫全句集』(1998)所収。(清水哲男)




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